ニートアカデミア(哲学) 不登校ブログ 無職長征一万光年旅記

無職ひきこもりニートが20代の終わりに地元をひとり旅した結果、『好きなことがある世界で生きて死にたい。』

2016年12月31日

「長野県観光一人旅」ナガノグレートぼっちチャリンジ

 

故郷は長野県ではなくて幻想水滸伝だった。

 

「20代最終クールだから」といって企画された地元長野県巡り旅、

 

その名も「地元マッピング」&「ナガノグレートぼっちチャリンジ」である。

 

まあ「13の頃からひきこもり生活者みたいなもの」だから世の中をまったく直に見ていない奇跡のワンダーボーイであるわたくし。

 

「2015年春の東京塩キャラメルロールの旅」において「ふっ」と感じた「地元って?」という問いから巡って、

 

「2015年夏府中にチャリで逝っちゃおう」による自転車旅の気持ちよさがアラサー男子の地元旅という割とありがちな迷い方への旅路へと誘ったのはそう遠くない記憶でありますねこのやろう。

 

 

振り返ってみるとそれなりに感慨深い旅になっていたよね。

「こんな『経験』として残っていくものなんだ」

とね、思って噛みしめている次第でありますよ。

 

 

だって「やる前はそんな経験はない」わけで、

「やったからある経験」なわけだからさ。

 

 

これって結構すごくない?

 

 

 

2016年27歳ニートの経験が1つ。

♪「春夏秋冬」ヒルクライム

「季節には季節のイベントを。」加速するときの中で僕たちに出来ることは。

 

まだ寒い4月の“天下第一の桜”

高遠城址公園(クレセントムーンコヒガンザクラ)!!

・「天下第一の桜! 高遠城址公園でエクストリーム夜桜お花見。【地元マッピングfrom長野】」

“天下第一の桜”とまで称された高遠紅姫桜たちのワンマンライブステージを氷点下の異常気象のもとで鑑賞した4月。

 

新緑芽吹く5月の“三大奇祭”

・「三大奇祭! 諏訪御柱祭であとのまつりと洒落こむ愉快なひきこもり。【地元マッピングfrom長野】」

“三大奇祭”とされる荒ぶる諏訪オンバシラの大祭を暴風雨のためにやり過ごしにやり過ごして迎えた「あとの祭り」の穏やかな5月。

 

そんで地獄の山登りが続いて全然自転車旅にならないから。

チャリンジとかキャッチーなタイトル付けておいて的はずれなこと甚だしいとばかりに挑んだママチャリ鬼改造企画も同時始動。

 

 

このブログを自転車屋にしてしまった企画でね。

もう「むらくも輪業」とか言っても何も問題がなさそうで。

へへっ。

 

夏も盛り7月の“五輪爆心地”

長野オリンピック紹介!?

・「オリンピックが夢の跡!冬季長野オリンピック開催地とそのフィーバー後。【地元マッピングfrom長野】」

“五輪爆心地”として長野オリンピックスタジアムなども巡ってみたり。2020年の東京オリンピック特需につけこんだわけでは全然なくて、ただ単に山登りがしんどくてできるだけ近場に何かないものかとボクサーのクリンチばりに繰り出されたお手軽取材地がそこだったというだけの7月。

 

これでなんとか5月から止まっていた地元マッピングを更新して勢いに乗るかに思われたオアシス企画であった。

 

夏が終わりにみせる熱い8月の“戦国のラストサムライ”

上田幸村

・「戦国のラストサムライ!真田幸村×歴戦の上田城(地元マッピングfrom長野)」

“戦国のラストサムライ”真田幸村のバックボーンとして撮影三昧となった迷宮上田城と真田めぐり。歴史好き特性とのコラボで最大級の大型コンテンツとなって大幅な製作期間が設けられて押し押しスケジュールはさらにケツカッチンの8月。

 

「今年は春になったら秋ぐらいまで巡りまくるぞ!」

なんて思っていたのだけれど、どうにも予定通りにはいかないもので、ここまででなんと4つ。もっと簡潔に行こうかと思っていたけれどいざ始めてしまうと普通にやってたんじゃつまらないし、何かしらテーマの選定など空想妄想していると色々準備が必要であれよあれよとオーバーワーク。

 

紅葉の階段は10月の“天国スポット”

戸隠古道への放浪旅

・「天国スポット戸隠!神域に棲まう忍者とパワスポ(地元マッピングfrom長野)」

“天国スポット”である戸隠の撮影には息も絶え絶えにたどり着き、さらに企画そのものも激坂上りでやはり息も絶え絶えとなったのだった10月。

 

夏山予定が秋になってしまう押し押しスケジュールであったものの、秋のちょうどいい陽気と、図らずもゆったりとした日程になった3日間は気楽にハイキングと洒落込むことができたね。

 

 

「後悔のしようがない経験。」

 

「やる前」や「やってる最中」は疑問符も付こうが、

やってしまった今となってはいい経験として消費できる。

 

これから抱くだろう「20代の悔い」や、

「シナリオもイベントもない人生」や、

「何かの虚無感」には対抗させられる経験になったのではないかと思う次第である。

 

ゲームとは違ってセーブ&ロードなんてできない一発勝負の人生の中で、

自分で考えて決断して実行したわけだから、

その結果がどうあれ、

いやもちろん成功がいいのだけれど、

やはりその結果がどうあれ、

それ以上はこの段階ではどうしようもないのだからそれでいいのだという、

 

 

「後悔のしようがない経験。」

 

 

だって「やる前はそんな経験はない」わけで、

「やったからある経験」なわけだからさ。

 

 

これって結構すごくない?(2回)

 

 

まあなんだかんだ言って「よかった」ってことである。

楽しかったし、面白かったし、意義もあったし、

とにかくよかった(笑)

 

 

Q.故郷とはなにか? A.「自分の世界観。」

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「この旅」を通じて色々思ったことなんだけれど、

というかそれまでの21の時から動き出して、

この「活動期としての6,7年の遠回りな旅」の経験で思ったことなんだけど、

 

 

「やっぱりオレの故郷はゲームだった。」

 

 

ゲームだったり、漫画だったり、アニメだったり、歴史だったり、歴史小説だったり、

そういった「自分がいた場所」ってどう考えても「故郷」だよね。

どう考えてもそれがオレの故郷だ。

 

 

「見わたした民家に絶望した6年前」と、「少し慣れた今」と、「良い思い出」のハナシ。

 

20~21のデスジャーニーでいきなりこの現実のリアルな世界の「違和感」に絶望したって言ったっけ。まだ書いてないっけ。

 

ともあれ「もういい加減に終わらせるのが自然」だということで今までいた世界と決別し、白黒はっきりつけたかったので出た旅だったけれど、すぐに気分は最悪になっていった。

 

 

「なんか違うこの世界」

 

 

って思ったから。オレがいた世界じゃないって感じ。見わたす限りのさびれた民家の風景と、草が生え放題で空き缶やらが放り投げられた線路と、とにかく錆び付いたものでいっぱいの生活圏のありさまに違和感しかなかったのだ。

 

それはそれ自体というより雰囲気で、この質感的なものに対してであり、同時にその世界に存在する物事すべてに対する違和感。

 

完全に言い表せていないけど、

 

簡単にはこういうことだと思う。

 

 

暖かいところから寒い所へ出てきた時の温度差にやられた。

暗いところから光のある所へ出てきた時のまぶしさにやられた。

 

 

みたいなことで。

 

13までは普通に外でも遊ぶし、それ以降も普通に働いていたのだから物質界がどうとか言うんじゃなくて、

 

 

「そこに好きなものがあるか。」

 

 

っていう「良い思い出」みたいな話。好きなところか?、場所か?、という自分の気持ちの問題。

 

でもないじゃんそんなの。

 

13から良い思い出は「あの中」にしかないわけだから。それこそがオレがこの時まで8年間くらいいた世界なわけだから。

 

さびれた鉄道に乗るゲームも、鉄道会社運営ゲームもやってないし、

 

しかもリアルなね。

 

さびれた民家を地域活性させる地方議員シミュレーション「政治家・丸ノ内征六の野望」とかやってないしね。

 

しかもリアルなね。

 

 

だから「少し慣れた今」と言ったのだよ。

 

 

こうしてそれなりに良い思い出が作られたのだから。

 

 

「良い思い出のある世界」

 

企画して、予定を考えて、どこで飯を食うか、どこで休むか、それは予定通りいったか、でなければこれからどうするか、このハプニングをどう切り抜けるか、

 

なんてまさしくハンターハンター読んでたりドラクエをやってた時に、したかったことじゃないかって。

 

外の暑さも、それで出る汗も、足の痺れも、心地の良い疲労感も、腹が減ったのになかなか店が見つからなくて食べられないのも、眠たいのに眠る場所が見つからなくて少しづつ座って睡眠とる作戦も、

 

オレは感じられたし、楽しかったよ。対処もできたからね。

 

ただこっちが食われる敵がいるゲームより、それを倒せる手段があるゲームのほうが楽しいしね俺は。モンハンだってあれ武器作れなきゃ絶望ワールドやもん。

 

そんで知ってるかもしれないけれど、

人ってさ、

 

暑いと喉が乾いて水がめっちゃ飲みたくなるんだよね。

 

そんで飲んだらすげえうめえの。

もうこれだけでそれなりにおもしれえの。

 

そんで今はいろいろと活動して、

自信とまではいかずとも、

「自負心と開き直り心がある」オレは、

 

 

それなりにこの世界でも行動ができる。

 

 

「オレが活動できる世界」

 

最近はブログからの奇跡的な収入によって外でもアクエリアスが飲めるようになったし、肉まんも食えるようになったし、観光地特有のアイスも食えるし、まあ多少は金を使ったこともできるしね。金だけの問題じゃあないけれども。

 

でも6年前の旅は金も気力もねえからほんとにアレだったね。

外に出たからって何でもできるわけじゃねえんだよね。

 

 

名古屋まで行くのに5000円かかるって駅で見たときに「ああそうだな」っておもった。

 

 

金額じゃない。

 

5000円稼ぐにはそりゃオレが嫌な労働をしなきゃいけなくて、

 

外でモンスターを倒してもそんなのもらえなくて、

 

オレが嫌な労働をあくまでもしなきゃいけなくて、

 

それはイヤな客やイヤな上司やイヤな同僚などとすり減らしながら渡り合った末に手に入るもので、まったくテンションの上がらない業務内容とやりたくもないし苦手なことだけしないと手に入らないもので、

 

そんなことからどうにかこうにかたどり着ける「ナゴヤシティ」であり、そしてきっとそこに行ってからも同じ嫌な、

 

オレにとっては致命的に嫌な所業をし続けなければ活動することができない世界なんだって思ったんだ。

 

でも今はこうしてダメもとで、

 

自分だけのルートで行ってみたら、

 

世が全く示そうともしないけれど一応存在しているルートを進んでみたら、

 

まあそれなりには活動できた。

 

再現可能なルートかどうかはわからないけれど。

 

家があってニートできてこそではあるかな。

 

まあそれなりにやれることもあるし、

行けるところもあるし、

良かったよそれは確かに。

 

 

「オレは居るべきとこにいるんだから。」

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『ブラッド・ダイヤモンド』
「俺は居るべきとこに居るんだから。『ブラッド・ダイヤモンド』」

 

まあそれでもどう考えても、

 

「オレの故郷はここじゃないな」って思った。

 

故郷じゃなきゃイケなんじゃないよ。

そりゃ。そこに価値があるなら。

新天地もそりゃいいさ。

 

 

でもその新天地に自分の好きな米を植えないってこともないじゃない。

 

 

うん。ちょっとロマンチックなことをいうねオレはロマンチストやからねまったく。

いこうテラへ…みたいなね。

 

 

「世界の違う人たちばかりだった。」

それはいい刺激にはなるし。なんでもそうだ。常にいろんな風が吹いている場所は風通しがいいし、様々な種が飛んでくるし、色んなものが混ざり合って色んな種を生む。

 

「シゲキ」ってのはいいもんだよ。このブログの三大テーマの一つやからねそりゃ。

 

だけど「刺激だけ」だと単なる麻薬感なだけでそれだけのお話になっちゃう。その刺激を何に活かすのかってのは後々大事になってくると思うわけ。

 

 

今回、地元長野県のみの自転車旅だったよ。

 

でもそれなりに多くの人がいるのを見た。

 

住んでいたし、

買い物をしていたし、

お祭りにも来ていたし、

観光にも来ていたし、

車で通行していたし、

 

まあとにかくすごい人の数が生活しているのだよ。

 

そりゃわざわざ言うまでもなくあたり前なことで(笑)

 

 

長野県の総人口は約200万人というらしい。

 

総人口2,086,342

「長野県」wiki

 

今年は大河ドラマ『真田丸』の影響でどんだけの観光客が県外や海外から来ていたのかというわけだし、それも含めればまあかなり居たということで。

 

 

オレがこの13年間主戦場として縦横無尽の活躍をしていた家には5人くらいやで。

 

 

でもさ、

 

 

その200万人以上の誰一人として、大して関わりなんかしないんだ。

 

 

好きなものも興味あることも今やってることも経験してきたことも、

 

 

故郷も違う。

 

 

兄貴とだったらいくらでも話せるだろうし、話すだろうし、というか話したよね。

 

 

幻想水滸伝の話も、歴史の話も、戦記小説の話も、銀魂の話も、ハンターハンターの話もできる。アウステルリッツ三帝会戦の話をしたら夜も寝れないだろう。

 

 

それは200万人の中にいるよりもよっぽどの価値があるだろう。

 

 

これだけでもさらに思うのだけれど、

 

 

「人って全然生き物としての根幹から違うんじゃねえか?」

 

 

なんて思うよ。

 

 

『世界観』が違いすぎる。

 

 

最近では「世界線」なんて言われるけれど。

 

 

キリスト教の世界観と仏教の世界観は違う。

 

 

仏教では当たり前の火葬も、キリスト教ではタブーだから「火刑台上のジャンヌダルク」は最大級の侮辱に当たるのだ。

 

 

どれだけの人波があったって、かかわる人間なんて殆どいない。

 

なんてことを、完璧に理解したよ。「同じに見えるだけ」で。

 

中身はほぼ別物の種族やで我々は。

 

もちろん、価値観が違う、文化が違う、好みが違う、知ってることが違う、なんてことは頭ではわかってたし、人生経験上もある程度はわかっていた。

 

ゲームでもよく種族間のアレコレはやるし、漫画でもやるし、歴史上でもそりゃ学ぶ。

 

 

でも「200万世界をひとりで旅した経験」から「肌」で理解したんだよ。

 

 

そんなところに身を投げたって何にも引っかからないわけなんだ。

 

 

世界なんてぜんぜん広くなかった。

 

 

ただ「違った」だけ。

世界観が。

世界線が。

それこそ“百万世界”と言わんばかりに。

 

 

オレの世界はもっと変な形をしてる。

 

 

広いんじゃなくて、

特殊な空間として展開してるだけ。

変な表現だけど。

 

 

深いところは深いし、浅いところは浅いし、高いところは高いし、低いところは低いし、薄いところは薄いし、厚いところは厚いし、寒いところは寒いし、熱いところは熱いしみたいな。

 

 

そういう特徴の世界というだけ。

別に「広く」はない。

 

 

たぶん「端」から「端」まで行くのに、

というのもそういう概念が許されるならばであるけれど、

端から端まで行くのにも、

それはあたかも「ネット上のURLさえ知っていれば瞬時に到達する」ように、

 

 

その場所は「遠くにはなくて」、

「あるべき場所にあるだけ」なんだ。

 

 

物理的な距離なんかじゃあないんだ。

遠くに行ったからって、

広く回ったからって、

到達するわけじゃないんだ。

「自分の場所」に。

 

スピリチュアルな話はしてないんだ。

ホっ

 

 

世界は狭い。

 

 

自分の世界は。

行く方法や、

作り出す方法がわかれば、

別に遠くに行く必要なんてないんだって思った。

 

ついてこれてる?

ホっ

 

「旅」自体は良かった。「故郷の価値」を知れるから。

 

そりゃあね。

 

その「自分の場所」とやらがわからないから人ってやつは「旅」に出るんだからさ。

 

そうして自分と他が「どれだけ違って」、あるいは「どれだけ似ているのか」なんかを知るわけでさ。

 

そして「故郷の価値を知る」っていうよくありがちなUターン組みたいな普通の思考に陥るわけだけれども。

 

でも世界的に見たってずっと遊牧してる民族のほうがアレやでまったく。

 

「アレ」としか言わんけれどもやなまったく。

 

 

人間みたいなのは結局どこかに定住をして、

「文化」を築いていくものなのさまったく。

 

 

そこが完全な、いままで浸っていた懐かしくて楽しい記憶そのものであるところでなくても、否応なしにそこからは這いずり出ていかなければいけないことになり、どこかの新天地を目指さざるをえなかったにせよ、そうなるのが基本なのかなって。

 

 

そしてそこに故郷の稲を植えるのさ。

 

 

それでいいだろ全くこのやろうがコレが言わせたかったんだろまったく。

むしろこれしか言わせたくなかったくらいでしょ

 

世界は途方もなく広い。

 

どっちだよって。ね。なりますか。ね。どっちだよて。

いや「自分の場所」ってなると狭いという話であってね。

いままでは。

 

 

どれだけ多くの世界観があって、

それらがいくら広かろうとも、

 

 

「自分が本気で行きたい&生きたい場所」というのは狭いということで。

 

 

そしてそこは自分の「好きなものがある場所」だと思うわけで。

そしてそれは「今まで自分がいて、良い思い出のある場所」が教えてくれたりして、

「それがある」、「そこで生きる」というのが自分の人生になるんじゃないのかって。

 

 

自分の人生がさ、

 

とにかく無限の広がりを持つオープンワールドみたいにだだっ広いだけでイベントが何も起きないクソゲーになるのはさ、

 

「自分の場所じゃないところにいるから」なんじゃないのかなって思ったのさ。

 

 

広くて多いからってそこになにかがあるというわけでなく、

言ったように、

 

「あるべき場所にあるだけ」だからさ、

 

その場所への行き方や、

あるいはその場所の作り方さえわかってればいいんだって思ったのさってことさっ。

 

 

あまりに広すぎるから、

「自分の場所がわからず」あるいは「自分が分からなかったら」さ、

「自我を保つことさえ困難」で、

 

この膨張を続けて永遠に広がり続けるような超亜空間にすべての意識を持っていかれて雲散霧消して、

 

あたかも「この存在を保つことができない」というがごとくに散ってしまうというそういうことなのだ。

 

 

だからオレは「いるべき場所にいたい」と思った。

 

 

 

好きなものがある場所で生きて、死にたいと思った。

 

 

 

まとめ「好きなものがある世界で生きて、死にたい。」

要は「同じ趣味の人と話したいってこと」だね

 

いいやおいおいぜんぜん違うよ待ってくれよ困るなまったく。

 

 

およそこの世に「違い」というものがあるのならばこのことを指すのではないかというくらいにまったく違うね。

 

 

「好きなものがある世界で生きて、死にたい。」

 

 

というだけだと言ってるんだぜ。

それは自身にとってもっとも基本的な背骨みたいなもんだと言っているんだぜ。

 

 

他に依る必要なんかまったくない性格だと。

 

 

つまりキホンなんだ。基本。原理。真理。原子。

 

 

「ただそうであることがとても自然なことなんだ」という意味以上ではない。

 

 

「故郷とはなにか?」がわかった。

 

そして「その故郷には自分の好きだったものが在った。」

 

だけど今までのように、状況も違うこの今の自分ではずっとそんなところにいることもできなくて、

 

だから旅をしたり新天地に立つ必要もあったけど、

 

結局はそこに好きなものがない以上は生きる価値も薄いのだから、

 

結局そこでも好きなことをする。

 

旅の中で新しい出会いや刺激は嵐のように遭ったけれど、

 

なんだかんだ言っても、

 

故郷によってつくられた自分の世界観というのは「こんなにも好きなことだったんだな」って思ったってこと。

 

思ったってこと。

 

これがまとめのちからや

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フライングなニートマンの著作書籍

 

★ニートの自伝

 

13歳の少年労働兵

「不登校×少年労働」編

愚か者の人生戦記第1弾は「生まれてから13歳で少年労働兵と成ってご活躍される」までのお話。既に中年サラリーマンの如き「労働と報酬の日々」を過ごしたひとの末路へつづく。

 

やることない体験記

「ニート×無目標」編

愚か者の人生戦記第2弾は「ニート化成った18歳から21歳までのやることがなかった」ころのお話。「仕事がなくなると人は一体何をするのだろうか?」という実験データに近いモノあり。

その後もニートだし今も半ニートなんだけどね

 

★「もしも働いていたなら?」ロールプレイングストーリー

 

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「もしも、ふつうに働いていたら?」

なシミュレーション。「シャケ弁食って働いて妹たちとゲームでもしているっていうのも良いのかもなあ」の未来を想った。

 

フェアレディZで通勤したキノコ工場で正社員してやることなくなった話

「もしも、そこからさらに正社員で働いていたら?」

なシミュレーション。「結局なにすれば満足なのコイツは」的な叙事詩が紡がれた。ある意味人間失格。

 

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「もしも、ならばフリーターしながら好きなことを目指していたならば?」

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不登校から復帰して労働徴兵されるまで大学に隠れた話

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なシミュレーション。もうそこまで遡って人生を最スタートさせてみても結局のところ結末は同じだったというオチ。学校へ行く意味を分解してみたやつ。意外と一番のお気に入りコンテンツに。「労働戦士恐るべし。労働徴兵許すまじ。」

 

 

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