ニートの極意
ここまで来たら全てが自由だ。
生きるも死ぬも活かすも殺すも考え方次第やり方次第。
正しくても間違ってても最後に笑えたら勝ちの世界。
- 自分にすべての時間を投入できることを認識する。
- 広い海の只中で自分を見失わないために自分をコントロールする。
- 恐怖を覚える。
- 自分の人生から絶対に目を背けない。
- 究極的に自分の人生の望みについて考える。
- やりたいことを見つけるためにひたすら考えて行動することを繰り返す。
- 自分の人生から絶対に目を背けない。
- やるべきことをやってそれ以外は悩まない。
- 家に感謝する。出来ないなら無視する。
- だれでもいつか必ず死ぬことを忘れない。
- 自分の人生から絶対に目を背けない。
私は世に言う「成功者」とやらではないが、
「よく生きる」ことはできているぞ。
※家のおかげが半分
これ等はその為の術。
是非は己で決めてくれ。
愚か者。
「ニートの恐怖」を踏まえてもニートであるしかないというならもうこの道を逝くしかない愚か者である。 実際そんなにはっきりと境界線を引けるわけではないだろけれど。
だがアレを踏まえて恐怖を踏んで自分を見つめなおしてなお、
「そうなら」
もうそれは自分だけの道を逝くしかない。
「世に言われているような普通の労働環境」に頼み込んで 自分が悪かったと哀願しても戻れないならもう自分の道を逝くしかなくなるのだから。
ニートになったらしたいこと。
ニートに成ったのには人それぞれの仕方があっただろう。
鬱、病気、勢い、などなどで一時的にもせよその状態になる。そんな時これではダメだとすぐ行動を起こしたりそうではなかったりそれもまたそれぞれだろう。よくニートになる人の特徴と題される物も見かけるが、
意外に色んな人達がいるものだ。
そんな定義に当てはまらないようなほど多種にわたっている。 共通する部分はあるにせよ、多くは誇大に特徴づけられたりしているし、それくらいのものは一般の人にでもあるだろうということも。だからその立ち上がりの時点では過ごし方もそれぞれあるのかもしれない。
つまり、
今までの生活に戻れるなら戻るだろうし、
戻れないで動けなくなる人も居る。
そしてここでは後者について話す。
なぜならそれが愚か者だからだ。
まず遊ぶ
まずは遊ぼう。
好きなだけその自由な時間を謳歌しよう。
大したことが出来ないことに気づくだろうから。
不安の中では人は楽しめないし、
自由な時間の使い方も知らないから。
それでも最初は少し休まるだろうからまあ遊んでおこう。
休んでおこう。
ここに関しては言うことはない。
しかしその最初期においては楽観的でもあるが、
次第に時が経つにつれて事態は深刻度を増してきているように感じる。
そう思えればまだ良い方で、実際には世界との関わりが薄いために鈍感になり自らの立場を把握できない。それもまたそれぞれ時間差はあるだろうと思う。
何にせよこの時点で人は精神的に色々と藻掻くからそれはなんでもいい。
取り敢えずまともな人ならニートやひきこもりの憂鬱を知ることだろう。
【マイ究極計画】とことん自分に訊く。
だがそうなったのならば、
見つめなおす事が使命だ。
自分を。
自分と社会との関係性が不整合なために生き辛いということは当然ある。気合ではないし。甘えではない。当然ある。私は知っている。全盲な人の労苦がそうでない者に解らないように解らない人間には一生解らない。
まずは自分を全面的に徹底的に本質的に究極的に見直す。
とことん自分から訊き出す。
聞いて聴いて訊く。
訊きまくる。
自分からもひかれるほど訊き倒す。
自分はどういう人間か
自分はどんなことに興味があるか
どんなことが嫌いか
どんな事がしたいか
大事にしているものはなにか
どんな死に方をしたいか
何のためになら死ねるか
どんな事のためになら生きられるか
何のためになら友人から罵倒されても続けられるだろうか
ナイフを突きつけられても絶対に自分には出来ないこととはなんであろうか
自分は一体どうなったら幸せなのだろうか
恋人をつくって家庭を持つことなのか
サラリーマンとして出世することなのか
起業して会社を大きくしたいのか
世界中を旅したいのか
自分は一体どうなったとしたら幸せなのだろうか
1年後が人生最後の日だと思えば自分は何をするだろうか。
自分の人生を腹を据えて究極的なところまで考える。
よく分かることもあればそうでないところも見えてくる。
だが大体はぜんぜん分からない。
若ければ若い程にまだ自分を全然知らないことを知る。
わからないんだよね。
大体のことは。
でも同時に裏を返せば、
「それなら悩んでも仕方がない」
とも思えることも。
だってその時点ではわからないのだから。
それ以上考える議題がないのだ。
この式で答を出せる人間はいない。
いたら非常に稀な精神の持ち主と言わざるをえない。この時点で悩んでいてもしょうがないだろう。 でも殆どのことはこのレベルで考えたり悩んだりしてるようなものだと思うのだ。
何が良いか悪いかすら人それぞれであるのに。
「【ひきこもりと教育】目的×手段=成果」のページで人間の一般望論をしてみたけれど。
それでも何が良いか悪いかなど人それぞれだ。
だから目的や手段や成果も人それぞれじゃないか。大体のことはお金を稼げれば解決するだろうがそれは一般の普通の人と言われる人たちも同じことだ。ニートなんて結局はそれだけのモンダイじゃないと私は思う。
究極的に自分の人生を1から10と言わず100まで1000まで考えても分からないことがあるなら行動していくしかない事がわかる。
必然的にそうなる。
なぜならわからないのだから。
分からないから考える。
それが分からないなら新しい議題のために何かを見つけてこなければならない。
つまり行動して。
つまり考えることは行動するためなんだ。
何か作ってる時に材料が足りなくなったらどうすればいいか考えて工夫する。 更に言えばさっさと材料を取りに行ってしまうのも話が早い。そして究極的に考えるとその内容はともあれこれだけのことをすればいいのだと知る。
考えすぎてイヤイヤぐちゃぐちゃすると最後はシンプルだ。
これだけでいい。
【意志】やりたいことを見つけてそれにとことん行動していく。
【覚悟】自分の人生から絶対に目を背けない。
これだけでいい。
やるべきことはこれだけ。
剣と盾を持って闘うというだけのこと。
たしかに取り敢えずお金があればどうにかなるだろう。
その為に行動し、行動できるようにすればいい。
そんなことは人間ならだれでも教えられてきている。
ニートに成ってまでまた考える必要もないほどに。 その為に様々な教育機関があるし「普通」とは正にそれのことだ。
だが忘れてはならないことはそれが出来なかったということ。
それを忘れてはならない。世に言う普通が出来なかったということを忘れてはならない。 同じ所をグルグル回ることになる。
「やりたいこと」を見つけよう。
そしてそれは考えて行動しなければみつからない。
やりたいことをやったものが最後に笑える。
「自分を生きた」時間はきっと何より尊い。
やりたいことが見つかればこうなる。
死にたかったら死ぬ手段を考える。
生きたかったら生きる手段を考える。
分からないなら行動して探す。
望みが少しでも見つかればあの手この手を考える。
考えて行動する。
運命を別として自分の意志でやれることと言ったら人生それしかない。
やれないことはどうしようもないから悩んでも無駄だ。
自分でやれることだけ悩もう。
やりたいことを見つけてそれにとことん行動していくのは
目的を達成するため。
自分の人生から絶対に目を背けないのは
後悔をしないため。
そしてやりたいことをやっていればいつか勝手に死んでいる。
ニートでなくとも自殺したいほど辛い人はいる。
順風満帆にみえて社会的地位も実績もあって一般には羨望されてまさにそれを目指すべきだといわれるような人たちでも自殺するほど苦悩していることはあるのだ。文豪の芥川龍之介など。
あるいは、
・失恋から辛い苦しい
・仕事がうまくいかない辛い苦しい
・病気が辛い苦しい
など。
そんな様々な要因から自分を守るためにひきこもってニートに成って自活できなくなって疎まれて自信を失くして一歩すら動きづらくなってだから何も始められなくて詰んだ結果、辛くて死ぬ。
というのならニート状態というものは全ての定着駅が1つといえるかもしれない。デスステーションだよ。デスステ。
だがそれは裏を返せば「どんな風に生きていようともこうなるリスクが有る」ということ。
「普通」と言われる様に生きていたって実はそれは見かけだけで「明日は我が身」だ。
いつそうなるかなんてわからないし、
いつかは皆ここにやってくるかもしれない。
「普通に生きる」ってなんだろうか?
普通に学校へ行って
普通にバイトして
普通に就職して
普通に結婚して
普通に子供つくって
それが幸せなことなのか?
みんなにとって?
自分にとっても?
幸せの象徴のごとく表される結婚にしたって、浮気や価値観の相違や嫁姑問題などでぐちゃぐちゃになって崩壊するなんてザラにある。
そんで慰謝料やら養育費やら。
子供にしたって、育てたはいいがその子供とそりが合わずに疎遠となって絶縁状態になる親子だって少なくはないだろう。
何ごとも「ただ単に幸せ」なんてものはないだろう。
良い点悪い点がある。
「世にいう普通の道」が「楽」なんじゃない。
普通に学校に行っている人も普通にバイトしている人も普通に就職してる人も普通に結婚してる人も普通に子供をつくってるひとも別に「楽」してるわけじゃない。
「普通」なんて質実剛健に質素倹約して社交友愛を大事に切磋琢磨を怠らないなど相当完璧にこなさなければ、ふとした拍子に踏み外して「こっちへ」やってくることなんてザラだろう。
だから、
どう生きたって本質的な自分自身の力や成長こそが大事なのだと思う。
だから結局はこの状態での生き方というものをいつかは克服しなければならないのではないか。
その場合に、
・社会とつながりながら刺激され介助されながら成長する場合。
・自分の集中できる環境で他所からのどうでも良い雑意に惑わされないで済むヒキニート。
言うまでもなく愚か者たちは後者のやり方にて成長をしよう。
前者が出来るなら「ニートの恐怖」で引き返しているところだろうから。
「普通」かどうかっていうより、
「自分がそこで息ができるか」
っていう場所で生きるべきだと思うんだよ。
その場所が自分にとっての普通。
自分の場所でもないのに、
キツくなったからって「世にいう普通の生き方」に急にすがりついたって、
楽なことなんてないと思うよ。
ひとの決定的重心は『成長』にある。
だが確かに重心はある。
重心のない作戦は顔のない人間と同じである。
(エーリケ・ルーデンドルフ)
というようにおよそ全ての物事に効果を発揮する力を持った、トランプの「A(エース)」の如きものがあることもある。心臓を一突きされれば他の箇所がどれだけ動こうと健康であろうと人は絶命してしまう。
生態としての人の重心は心臓や脳だから。
戦争において最も重要な事は敵戦闘力の撃滅である。
(フォン・クラウゼヴィッツ)
と言って諸般の戦争体系を定義してしまった人がいた。「人はだいたい目に見える物理力に頼るものでそれを破砕すればだいたい終わる」と言ってのけてしまう。ではそれは何故か?というその為だけに「戦争論」という大著は書かれた。
それが事実であるかどうかは別として、
「その人自身の本質的な力が何においてもまず重要」
というのならそれが人生における1つの重心とも言えるのではないか。
例えば普通なら人生の重心はお金かもしれない。
・お金は万能だ。万能な価値の決済手段。大体の物と交換できる。
・だからお金を持てばいろんなことが出来る。
・ではお金を稼ぐ手段を身につけよう
これが普通の流れとなっていると思う。
さながら「人生において最も重要な事はお金の獲得である。」という具合に。
そしてそれらの価値観はここではどうでもよい。
だが稼ぎ方はそれぞれある。
サラリーマンもいれば俳優もいて大工もいて医者もいる。飲食店のバイト一つ取ったって、普通に面接で入って誰でもやれるようなことと言われる単純労働をする人もいれば、
フォトショップやサイト運営が出来るスキルを活かして広告や公式サイト設置を謳って飲食店のバイトに採用されるなんてやり方もある。
いや、あるかもしれない。
飲食店のバイトに入るにもその人自身の本質的な力や個性を自在に活かしてそれぞれな入り方があるかもしれない。
そんなことあるわけない。
そうそれは普通。
しかし持ってる力というものは、「どう活用するかで色々な使い方がある」ということではないか。だから「使えない力というものは理論上はない」のではないかあくまで理論上は。
だが、
ハッキリ言って、
この道では、
それが最大に重要な考え方となる。
なぜならこんな所に道などないから。
「恐怖を覚えても普通の道に行かなかった愚か者、もしくは行き場がなかった者たち」
の行く所に作られて整備された道などないから。
創意工夫しかないんだよ。
そのためには自分が成長するしかないはず。
自分を生きた価値。
そして先に述べた「どう活用するかで色々な使い方がある」というものこそは
「個性」のことである。
人の目だけ気にして強制的に仕込まれた訳の解らない数年後には負債にしかならない高等数学やなにやらの知識のことではない。
放っておいても勝手にやってしまうようなもので得られた個性。
それが唯一の武器なんだ。
それを使って生きるという事が自分を生きるということ。
人は産まれたその瞬間から脳細胞が死んでいくのだという。
だが脳細胞だけあっても何も出来やしないのだ。
だから人は長く生きて脳細胞が死んでいくたびに形つくられて「ようやく使える形」になるといえる。
さながら大きな白い四角形の用紙を、
”切り取って”
形つくることによって様々なモノが生み出されるように。
皆ただの四角形の中に、
一つだけ三角形をしたものがあったらどうか。
使いみちは使い方次第だがそれがきっと自分だ。
その形こそが自分の形なのだ。
この世界ではこれだけが自分の武器になる。
なぜなら点数なんてないから。
決まった用紙に気に入られるようにして答を書けば点数を貰える世界ではないから。
「正しかろうが間違っていようが最後に笑えたものが勝ちだから。」
いつかは絶対に死ぬのだ。
1年でいい。
やりたいことを見つけてそのために生きた時間が1年あればいいと思えることもある。
自分を生きて笑おう。
自分次第。
活かすも殺すも成功も失敗も自分次第。
失敗しようと人を恨む必要もない。
自分を恨むしかない。
人を恨んでも相手次第だが、
自分を恨めば自分が変わればいいだけ。
全て成長になる。
人生の重心は成長だとしたらいい環境じゃないか。
「素材」が自分の個性
「考えて」
「行動する」
基本これしかやることなんてないはずだ。
自分の人生に自分がしてやれるのはこれだけ。
「成長する」というそれだけのこと。
運命が半分。
自分でやれることが半分。
運命はどうしようもないから悩んでもしょうがない。
あと残されているのは自分でやれることだけ。
それにだけ悩んで苦しむ余地がある。
やりたいことを見つけてそれにとことん行動しつづける。
自分の人生から絶対に目を背けないで考えつづける。
すなわちたったこれだけ。
やるだけやったか。
物事が成るか成らないか勝つか敗けるかは結局はわからない。
「勝敗は兵家の常」というように。
だが直前になって「ああしておけばよかったこうしておけばよかった」となるのは致命的だ。
常に不安と焦燥と恐怖にビクビクしながら怯えてそれでも何もせず見ようともせず死んでいくことの悲惨さを見るが良い。
確かに何かしても後悔はあるだろう。
敗ければ当然に悔しさもある。
だが仕方ないじゃないか。
やるだけやったなら
やるだけやったのにどうにもならなかったことは、
結局自分にはどうしようも出来なかったことなのだから悩むだけ無駄なことなのだ。
何も見ないで目を背けて手に入れた最悪の現実の後悔よりはマシだろう。
やるだけやったのだから。
自分ではどうしようもなかったことで、
あとは世のせいだ。
ここまで来たら世のせいにしてもいいだろう。
やるだけやったならば。
責めようがないのは
やりたいことを見つけてそれにとことん行動し、
自分の人生から目を背けず考え続け、
やるだけやった自分。
責められるべきは
自分の人生もその未来すらも見ようともせずに何もしなかった自分だ。
何もしなかった自分だけ。
いつか
やるだけやった自分を見るが良い。
一体どれほど困難な状況のもとで
一体どれほどの抵抗を試みたのかを見るが良い。
後悔のしようがないから。