低収入で人生を謳う。それは200年後のワールドヒューマンスタンダード。
「今までは自分がニートであることを隠そうとしていたのに」、こっちの世界じゃあ、「今度はニートであることを気づかせる努力をしなきゃあならないなんて。」
という具合のニート事情を抱えているブログ主でございます。
「ニートのブログで認知されんなあ」「Googleに存在消されてるなあ」
なんつっていたのもつかの間で、
「ニートじゃなくなってた」つーんだからびっくりやでまったく。
100年後、人類は歴史上初めて余暇をどう楽しむか悩むようになる。
「孫の世代の経済的可能性(1930)」ジョン・メイナード・ケインズ
原理主義的「NEET(ニート)」とは?
15歳から34歳までの通学も家事も就労もその意欲もない「若年無業者」。
「ギャップを埋める:教育、雇用、職業訓練に参加していない 16~18歳の若者に対する新しい機会」。 英語で「not in education, employment or training」の頭文字をとって『NEET(ニート)』のコードネームを与えられたという。
参考「【ニートとは?】無職とニートやスネップの違い。こうまでニートの人生を生きた私がどうしてニートでないなどということがあるでしょうか。」
「若者」=「やり直し可能な人材」=「だからまだまだ見捨てず教育ができるようにしましょう(英国)」
34歳までであるのは、それが厚生労働省などの国家機関がそれまでを「若者」としているからであるとか。「若者は」親がいたり兄弟がいたり親族が周りにいて援助してくれるという意味だったり、職業スキルを積むのに、あるいは肉体労働をこなすのに、まだ可能な範囲であるという時間制限的な意味があるのかもしれない。だからそれをしっかり認識して、国家として人材教育という観点からクラス分けした結果、「ニート」という名称を与えられて国家プロジェクトの対象にされたということだろう。
まず英国で。そしてそれは16歳から18歳までのまさに青少年のみであったけれど。
「働かない働いていない」×「その気もない意欲がない」
「働かない働いていない」は単にその状態で判断できる。無職である状態。無収入。「その気もない意欲もない」を何をもって測るのかは別として、すくなくとも実際には「学業」だったり「職業訓練」だったりあるいは普通に「アルバイト」だったり「日雇い派遣」だったり、それが一端の正社員的な働き方でなくともやれることはあるにも関わらず、「何もしていない」というのが「意欲がない」に該当すると見ていいかもしれない。
だから家にいる。無職無収入だから。そしてそれを改善する動きもない。
実態「働いていないから賃金がない」にも関わらず「生活ができるのは実家にいる為」
問題「親がいなくなったら生活できない」大勢がそうなると「社会不安が引き起こされる懸念」
国家としてはこのように、「自活できなくなった人間があふれると社会的な犯罪を引き起こしかねない」という懸念もあるので対策が望まれてはいる。つまり「米が買えるなかで行った窃盗は犯罪だが、米が買えない世の中でおこなった窃盗は犯罪と言えない」ような状態になってしまうから。つまり社会問題化。
と言うより社会破綻であり「北斗の拳状態」である。
サラ金に借金をして利子返済地獄になるのだって、「本来は利用者自身が借りたせいなのだから」と言っても、実際にはそれで借金地獄となって色々と問題が引き起こされるから国が制御しなければいけない事態になってるのと同じような話。だから一応、国としても社会保障という枠組みでの施策対象になる。
これらが厳密な意味におけるNEET(ニート)である。多分。
つまりニートかどうかはその瞬間瞬間のキモチの問題らしい。
「おまえ今ニートだったな。そういうところだぞ。」
実際的には「無職無収入」=「ニート」って呼んでるか呼ばれてる。
しかし実際は、
「その気もない意欲がない」「そしてそれを改善する動きもない」
なんていう人は殆どいないだろう。
一時的に欝や何かの拍子に気力減退のブルー状態になることはあっても、根本的には
「どうにかしなければいけないと思っているが……」※行動もした結果にも
というのが大半のニートだとみれる。世を見るに。
「面接で断られ続けた」ということで水際で排除され続けているか、「生きる意味がわからなくなった」という人生そのもののスタンスが定まらないがゆえに行動力が希薄になってるとか、
つまり、
意欲までないパターンはあまりなく、
実態としては単に、
「無職無収入だから家にいる」
ような人たちがニートと名乗ってることは多い。
ただ、「意欲までない」とか「恥知らず」とかまでは思われたくないという場合には、
「あくまで求職者」
であることを主張する。こうすることで「カクカクシカジカにて就職叶わないだけ」ということになるからである。
そして実際にも大体そうだからである。
しかし結果としていつしか気力や自信を失って「意欲まで失ってしまい」いつしか原理主義的ニートに陥っていく場合はあるだろう。そしてこんなことを言うのだ。
「35歳までは大丈夫かな」
自分の場合ならばこう。
「労働意欲はまったくかけらもない」
「無職底収入だから家にいる」
「しかし、成長と創作への意欲だけはある」
みたいな感じ。
さらにその100年後、人類は歴史上初めて皆がニートをどう楽しむか悩むようになる。
フライング・ニートマン
新種ニートとは?
底収入で人生を謳歌するライフスタイル
自殺帰還者がその後をニートで生きたひきこもり無職のお話日記ブログ。その選択肢はもう知っているんだ。 その「なにもしない」という選択肢の結果は。 もちろん「なにも起きない」だった。
収益化された結果に。「無職無収入」から外れる。
なんやかんやと好きな活動をした結果あくまでも結果として収益化がされたために、「無職無収入」から逸脱してしまったのがワタクシのようなものでございます。
労働はしてないのである。
人様のビジネスの一端を担わせていただいて給料をいただいたというわけではないし。まあそれが労働の定義でもないけれど。さらに言えばビジネスの何かしらの一端は担っていたのだろうけど。
とにかく収益化されたので普通のニートじゃなくなったというのである。
『低収入で、実家暮らしで、人生の目標はコスパのいい知的欲求活動でフィニッシュ』です。
それが新種ニートの人生。ライフスタイルである。『低収入で人生を謳歌するライフスタイル』なのである。コスパのいい人生なのである。すでにニートとフリーターをあわせたフニーターなる言葉もあるから別段珍しいものでもない。「最低限の労働(金策活動)しかせずに家にいて生きる人」みたいな意味で。だから意味合いは同じである。
我々は「高い車なんかいらない」のである。
およそ人様がやりたがるようなことであったり、したがるようなことであったり、特に高度経済成長期のパッパたちが望んだようなギラついた「新築建ててマイカー並べて家庭をもってハイキャリア」という望みばかりを持たない。そのために働くというモチベーションも価値観もないのである。
1万円のRPGツクールで一生遊べるのである。数百万もするフェアレディZは要らないのである。
「それくらいなら一日拘束時間10時間で休日出勤も上司のパワハラも弱い立場でこき使われて使い捨てられるような状態に必至でしがみついて結局捨てられるようなことをするパワーは明らかにオーバーフローなのである。バイト程度で十分なのである。」
そういった若いフリーター的な感覚は受け継いでいるといえる。
しかし実際には、「歳を取るごとに大人のリッチな遊びや生活、責任感のある家庭持ちなどに憧れ、そして年増になるとかんたんにバイトもできないという実態に直面し、着実にキャリアアップをしておけばよかった」だなんて思うのが今までのフリーター像。
しかしこの中年リストラ時代を知る新世代はそんなことでは後悔はしないのである。
趣味がいーーーーーーっぱいある世代とよく言われるあの世代。
とにかくコンテンツが溢れて消費しきれないほどの創造物やサービスが跋扈して、惜しむらくも良品がだいぶリーズナブルに楽しめる時代となっている昨今。漫画、アニメ、ゲーム、ネット、などなど、そして一億総クリエイター時代ともいわれて消費だけでなく創ることもまた低コスト低ハードルで行える。
つまりこれぞ『知的欲求活動』である。
これはべつに「頭の良い活動という意味ではない」のだ。人としての知性が欲求する活動。知的好奇心を満たす活動。そんな比較的にはコスパのいい代物である。もちろん度合いによってコストはかかるが、そこはそれほど贅沢は言えないからそれなりには自重しつつではあるが納得する。できればその限りではないけれど。
体の欲求は最低限でOK。知性の欲求を満たせば人生の欲求はそれなりになるみたい。我々の中では。
つまり、ニートになっていくような気質の人間には。ひきこもりになっていく気質の人間には。少なくとも私の場合はそうである。そしてそんな人間に、「バリバリ働いて車を買って家を建てて美人の嫁さん貰って子供をたくさんこしらえて国会議員になって立派にやれ」なんて無理なものである。
「いやそんなこと言ってねえがな。自分の食い扶持くらい自分で稼いで税金ぐらい払えや。好きにやるのはそれからだろ。」
それな。
それはまさに正論である。王道正論である。このような主張に意を差し挟む気は我々にはない。そうではないという者もいるだろうが、とりあえず我々としては異論はない。だから我々のスタイルをその点において正当化しようとするものではない。
やはり「世の基本的な労働環境などを苦手とする」部分を持っている。
ただ、
「できないもんはできないのだからしょうがない。」
という話で。
だから、
「自分にできることをやった。その結果、低収入にはなっちゃった。」
という話で。
基本は『自分のやりたいようにやりたい種族』なのである。
だからやはり「世の基本的な労働環境などを苦手とする」部分を持っているのはニートやひきこもりを土台とする所以なのである。
新種ニートの特徴
好きなことをして生きて死ねればそれで本望。
基本的に「好きなことのために嫌いなことをしません。」それほどの生命力をもっていません。無理なら無理で諦めます。ただし「やれたらやる」傾向はあるようです。そして好きなことができうる限りは続けるでしょう。死ぬ時期は問いません。それほど執着的に人生計画などは建てていません。その一瞬一瞬を「本来あるはずがなかった時間」として噛み締め、いつ果ててもしょうがないというキモチでいます。そういういい加減なキモチでいます。
家に感謝をします。
新種のニートはなりふりを構います。死ぬ気で生きるなどというわけではありませんから当然です。気にいらないところからの施しは受けません(判断基準はそれぞれ)。感謝できるところからの投資だけ受け取ります。ありがたく頂戴します。だから感謝するのです。普通なら死んでいるようなこんな自分の支援者を大事にしないはずはありません。(しかし実際にはそう素直にもなれないもので、多くの家庭内問題を抱えている場合はありますが、基本的には感謝を感じています)そして卑屈にはならず堂々と居座ります。
「労働しない」というわけでもありません。
これは個体差になりますが、「バイトや日雇い労働をしながら」実家暮らしで知的欲求活動を行う個体も多いでしょう。実際、そちらのほうが確実な収入源となるからです。正社員的契約形態では時間が取れなくなってしまうので非合理的です。しかしこの方法であれば時間は確保できるのです。年齢に比例して維持しにくくはなるでしょうが、このような形態は10代から30代までの新種ニートにはそれほど珍しい形態ではないでしょう。しかし、対人恐怖症であったりその他の理由で「外で働く」ことが困難な場合には、ネットビジネスなどで低収入を確保する場合が基本です。
次の世代のためにも、自分を感動させてくれた素晴らしいモノに『地球市民税』を払います。
「人類みな共同戦線」的な謎の共鳴心をもっています。基本的に「この世は地獄だ」という認識でいますから当然ですね。だからこそ「この地獄絵図な世界に誕生してしまった人類は共同でクリアを目指さねばならない」という認識を持っています。だからこそ「楽しかった」、「面白かった」、「感動した」、「役に立った」、「ありがとう」、といった良い思い出を与えてくれたモノに少しでも、いや、自分と同じような存在が今度もまたそういったものを受け取れるようにと、少しばかしでもと、できる範囲で地球市民としての納税意識を持っています。(自己満納税)
普通の税金は高すぎて払えません。
国民年金、健康保険、住民税、などを払えるだけの経済力は有していません。自己満足の地球市民税は払えても、こういった国の圧力がかかる脅迫には抗戦のしようがないのです。所得収入によって減額は受けられるのですが、同居家族内に経済力のある人がいる場合には受けられないという皮肉な事態となり、結局は家からの投資によって賄われることになるでしょう。
ですから国には早急に、
「個人の経済力のみを対象に税制を適用する」
という低収入者の尊厳を尊重することを我々は望むものである。
怒らせると日本は滅亡。早急に税の改制をのぞんでいる。
我々ニューニートは命をかけて抗戦する。
意図的に働かないことによって収入源を断つ。
収入がないことを理由に所得税を払わない。
やがて家賃が払えなくなりホームレスになることによって住民税をも払わない。
ニューニートの人口が増加することで日本の労働力、税収は著しく低下していく。
少子高齢化が進み、労働力、税収が低下するとどうなるだろうか?
国のサービスは悪化し、年金は確実に崩壊する。
国内の死亡者数は増え続け、生産者、消費量が低下、経済全体が縮小し、
日本は確実に滅亡する。
もう物分りのいい大人を演じる必要はない。
人として生きているという当然の権利を主張しろ。
義務はその後から果たせば良い。
主張が通らない限り我々は一切の労働納税を拒否する。
払えないところから取ろうとすれば1円もはいらないのだ。
結果、
国の税収は激減し、
なおかつ年金機構は破綻、
金回りも悪くなって日本経済は確実に滅亡する。
低収入でも税金が払えるようにしたらいいのだ。
我々はそんなには求めない。
だから我々からそんなにも奪うな。
上記の「ニューニート」は劣悪な労働条件改善のために人類がとる抗戦形態であるが、
我々「新種の底収入ニート」とてもあながち不当な要求はしていないつもりである。
「収入がある分は税金も払うが、無いから払えないし、ある分で払えるようにするべきである。」
こうとなれば少なくとも「自分ができる仕方で、世界の経済に関与することができる」のだ。
これこそが人材を無駄にしないで済む、
最速にして、
最良にして、
最高の社会貢献スタイルであると我々は確信している。
これだけ「個々のあり方」が沸騰している昨今の世勢のなかで、
目の色や肌の色の問題、
扱う言語の問題、
性の問題、
好みの問題、
文化の問題、
個々人がもっているそれぞれの個性の問題から生じる
「個々のあり方」が沸騰している昨今の世勢のなかで、
なぜその働き方、
暮らし方、
人生の楽しみ方が多様化しないのか?
それに合わせた税制や国家の仕組みが作られないのか?
なぜ国は限られた税収の中で国家の運営ができないのか?
それぞれが、
それぞれの仕方で、
それぞれの良さを活かして、
それぞれなりに稼いだ収入から生まれ出る税収のみで国家は運営されるべきだ。
我々は200年後にそのような国が誕生する光景を見たり。