不登校ブログ 無職長征一万光年旅記

働いていたら?通学していたら?ニートでなかったならば?「もうひとつのあったかもしれない進路」にララバイ

2017年3月29日

 

だけど結末は同じだった。

 

まさに「夢のひとつ」な話。

 

氷原に死に過ぎなね。

 

「人生の偉大な目標」という意味ではなく、「寝る時にみる夢のようにモヤモヤしたビジョン」という意味で。

 

そして明日へ還るのだ。

 

もしも働いていたら?通学していたら?

・はてなブログ「ニートが働いたかもしれないブログ。」

 

というテーマのもとでひっそりと別ブログ建てて執筆されていたパラレルワールドな妄想劇である。

 

あの「死の旅」帰還時の21歳の時点で世が一般に言うように、

「ちゃんと働いていたならば?」

もしくはやはり世が一般に言うように、

「ちゃんと通学していたならば?」

 

結果はやはり結局、

「生きる意味がわからずにニートした結果、死のうとして新しく生きるだろう。」

という結果になった。

 

最大で10年遅れて。

 

つまり為されたのは、

今現在の自分が歩いている進路への「正当化」

だよね。

 

「人それぞれの人生の目的がある。」

「動物の比じゃないほど人間は固有に違う。」

「ひとつの世界だけになってしまうとそれから外れる人は死ぬだけ。」

「鷹には鷹の、虎には虎の、鮫には鮫の活きる場所がある。」

 

だとか、このシリーズで表現したいことはこのブログで散々主張して表現していることだけれども、オレの人生もやはり「なるべくしてなっている」ということがこれで証明された。というかただの「正当化」だし、実際はどうだったのかは知らないことだけど。

 

「この道が駄目なら全て終わり。」のこれからへ捧ぐ。

でもこれから30になっていって、

さらに「分野を開拓する」とか、

「時間の集中砲撃だ」とか。

これから人生でコストを使うものを絞って、

「それ以外は捨てにかかろう」かという、

 

「この道が駄目なら全て終わり。」

 

なんていうことに向かっているもんで、

 

「ほらこの道しかなかったじゃん。」

 

とさらに確信してみた。

 

オレは後悔することなんて無いし、不登校であることも、ひきこもりであることも、ニートであることも、何も後悔なんて無いんだよね。

 

オレは、「ここからなにができるのか」に興味がある。

 

だってコレがオレの人生だろうし、固有の痛みで、固有の悩みで、固有の喜びなわけだから。

 

そこで十分な成果が得られないからといって、

泣きごと言って他の道にすがってみても、

結局そこにも痛みや悩みなんてあるわけだよ。

 

働いてみても、大学卒業してみても。

 

「絶対誰でも素晴らしいモノを必ず手にできます!!!!幸福になれます!!!!」

 

なんて道はないでしょ。

あるわけ無いじゃん。

あったらその道に価値はなくなるし。

 

そんな八流アフィリエイターの宣伝文句じゃあるまいし。でも追い詰められた人は藁にもすがる思いでそんな甘言に乗って行ってしまう。オレだってそんな気持ちもわからないでもないけどね。

 

だが今は強く「ニートの人生がどうなっていくのか」に興味がある。

 

『HUNTERXHUNTER』より興味が出てきてしまった。

 

「この世に『HUNTERXHUNTER』より面白いものは無え!」と思ってたのに。

 

オレにとって、オレが今やってること以上に面白いことなんてなくなってしまった。

 

『HUNTERXHUNTER』描かれだしたらこのブログもやめようかなって思ってたけどやな。

 

もうええわほんで。

 

オレはいくよ富樫。

 

超面白かったよハンターハンター。

富樫は死んでないよね。

 

「人生の至上命題」をほったらかして本気で生きるなんて無理じゃん。

 

オレの場合は、学校は行かなくて正解過ぎた。

 

結局そんなところへ行っていたら

「自分を隠した10年間を過ごして、今のように生きるのが10年遅くなっていただけ。」

という確信があるから。

 

実際にどうだったかは別の話だし、人様の経験としての話にまで及ぶものでもない、

が、

自分自身の人生の話としては確信しかないのだ。

 

結局のところ、

自分にとっての「人生の意義」っていうものがあって、

 

それはいつまでも誤魔化せるものではない。

 

必ず何処かで明確に決定的に“対峙”しなくてはいけないことだったんだ。

 

それがオレにとっての史実としては「労働奴隷時代で、ただ消費するだけの人生では生きていけない」事と対峙し、

 

「自分が人生で価値を感じることはなんなのか?世が勝手にそうさせてくるだけのモノではなくて、自分がそのために本気になれることはなんなのか?」

という至上命題に対峙した。

 

どうせいつかはやって来る「労働と報酬の日々」が、「自分にとっては価値の低いものだ」と対峙したんだ。

 

そんなオレが学校に行っていたら、テキトーに周りに合わせて、テキトーに自分を隠して、

 

自分自身からすら自分を隠して、

 

本当に自分にとって重要な“人”と話すことすらもしないで10年を過ごしただろうとハッキリと分かる。

 

大きな負荷がかかり、大きなエネルギーを必要とするのは、

必ずいつだって自分にとって大きな行動が必要とされる時だというのに。

そんなチカラを自分の一番重要な人の承認が無いままで得られるわけがない。

 

「まわりのチョットした人生の関連項目的なモノとだけ当たり障りなく傷つかないようにだけ関わって」

なんてことは駄目なんだよきっと。

 

「そんな大事な部分は見ないようにしてる」

なんてことは駄目なんだよきっと。

 

いちばん大事な時に一番大きなチカラをくれるのはソレなのに。

 

踏ん張らなきゃいけない時、頑張らなきゃいけない時、キツイ時、辛い時、

いくら工夫しても、上手いこと考えても、

 

何かをやっていく以上は必ずどこかで「ぐっ」としなきゃいけない時ってあるんだよ。

例としてはアレだけどこんな時「これは自分がやったものだ。」って思える物があるってのはいいよマジで。

 

「やれたらやる」でやっている今だって、やっぱりそういうことはあるんだ。何か漠然とテンションが落ちるときもあるしね。でも何かはやらにゃあしょうがないし。気持ち的にも体力的にもあるわけよ。

 

その時に一番チカラをくれるのは「自分にとって心底大事なこと」だったりする。

 

心底好きだったり、

心底面白いと思えることのためだったり、

とにかく心の底から、

 

「心の最も深いところで納得できる価値があるからやっていける。」

 

ソレが「人生の至上命題」だと思う。

 

 

ソレをほったらかして本気で生きるなんてオレには無理。

 

 

「人様の経験に」とやかくいうようなモノではなかったよ。

あくまで「自分の場合はこうとしかならなかっただろうな」というシミュレーションというわけよ。

 

「大学出てても、働いていても、結局ニートになった状態なら、むらくもさんの方が10年も若いのかあ。ええなあ。」

 

みたいなことをいいたいわけじゃないからね。

 

あくまで「自分の場合」だから。

 

「何事も人には固有の経験や感動があるのだから、それをどう利用していくかでしかない」というのが理想論としてこのブログでは掲げられているわけ。

 

だって学校の経験ひとつとっても、学園モノのゲームや小説やマンガを作る際の描写は「経験者のほうが書きやすい」わけじゃない。

 

オレにはわからんもんね。だからペルソナシリーズに何にも嫉妬とかしないよね。オレには絶対ムリだもんね。むしろオレの知らない世界を楽しませてくれて有り難さしか無いから。

 

『海皇紀』だって商船学校の経験を活かして描かれた。

 

我が人生に多大な影響を与えたであろう「我がメモリー」にある『海皇紀』というマンガでは「海と帆船」のことが「まあリアルに描かれる」わけだけれど、これも作者さんが商船学校の出身であることを活かして描かれているから。

 

そうして我が手元にやってきてくれるわけだから。

 

結果、

『ニート』に成っていようと、

それまでの経験は絶対に何かしらに活かせるわけ。

 

というか「そうでなきゃ」困るし、

「そうであれば」面白いのだから、

「そう思っておく」のが良いというわけだよ。

 

そして自分が「そう思えば」自分の人生も「そうなっていく」と本気で思うけどねオレは。

 

だって自分が「そう思う」事のもとに「自分」は動いていくんだからね。

そしてここは「精神と時の部屋」みたいな「自分主導」の世界なわけだし。

 

自分からの影響力が大を占めるニート世界なわけだからさ。

 

かといって、「すべては正しかった」なんていうことでもない。

「今の現状はとにかく素晴らしい」だとか、むしろ「なにもしないで居ても人生なんて変わらないし、いくべきところに自然に行く」だとかいうものではない。

 

危機感を覚えるところは覚えるべきだから。

 

オレにとってそれは余生時代とか言っていた07年と08年の「2年間の無為」の日々だったと認識してる。

 

鬱のようにゲームもやらず天井を見ていたり、ボーッとしたり、とにかくあまり活動的には動かなかった。

 

今は、この「なんでこんな時間を過ごしてしまったんだ」という「危機感」「後悔の念」を強く持つことはできてるね。

 

けど、

この時間もやっぱりオレの人生には必要だったものである。

 

実際、自分の人生哲学における“尚武の精神”に大きな影響を与えてくれたクラウゼヴィッツ先生の『戦争論(フォム・クリーゲ)』を書き写していたのもこの時期だし、

 

とにかく自分の人生で明確に

 

「特に何もやる理由がないのに、生きている」

 

という状況を如実に体感したのがこの2年間だったから。

 

だからこそ「その意味」を理解できた。

 

だからつまりこの無為な2年間も「結果としてなら」、

「価値ある時間だった」と今では思えるし、

人生で大事な時間という触れ込みで「人にもおススめする無為期間」だから。

 

なんでも2元論というか太極図的なもので考え様ということだよまったく。

 

つまり、

 

それじたい後悔することだったのならこれから改めればいいし、

そしてその後悔じたいは結果としてなら「必要な経験だった」と思えるとなお良い。

なぜならば「失敗できる」から。

 

「行動」は「成功」と「失敗」を生み出すけど、

 

ハズレであるその失敗ですら「その後の利用の仕方によっては価値あるものになるんだ」という考え方は、やはり「行動を起こしやすくさせる。」

 

つまり「成功率も高まる」わけだ。

 

うんそういうこと。

 

自分というダイスを投げる。

 

その結果はどうなるかはわからないけど、その「投げる方向」と、「出た目」をどう利用するかはやっぱり自分次第じゃん。

 

半分は。

 

「結果」というあと半分は運命だけど。

 

ストーリーはフィクション。エピソードは実話。

あの一連のストーリーの流れはフィクションですけれども。全然働いたことなんかないですからねコレはまったくのところ。

 

面接だとか求職活動だとかまーたくのぜーんぜんしたことはありもはん。

 

実家の自営店労働時代のくだりは実話ですけれども。

ゲーム企画をつくってテロ投函していた時期に勢い余って中途採用枠に送ったことはあったけど、そこはすんでのところでなんとか面接を回避しましたよワタクシは。

うん。なんとか書類選考で弾かれることに成功しましたよね。

名前書いて、ゲーム論文叩きつけてるだけですからねほんとただの異常者の類ですからねほんと気をつけてくださいねほんと。

 

ただエピソードそれ自体はほとんどすべて実話。

 

すべて、「あったこと」や「感じたこと」や「思ったこと」の実話。

 

それらの組み合わせでああいったストーリーが構成されたということで、

 

「すべては背中合わせのお話なんやなあ」ってさ。

 

そんな感じにうまいことふんわりとした気持ちで処理していただくととても助かるよね。

 

さあ、

 

そんな自己正当化が済んだなら、

夢はさめるから起きましょうという話ですよ。

 

明日へ還ろう。

 

自分の人生に必要のないクソみたいなものに迎合することなんかないんだから。

 

合わないものとは関わる必要もないし、おもねる必要もない。

 

そんなことするんだったら死んどけ。

生きるなら自分を認めるものとだけ生きろ。

 

ないならそれでいいんだよ。

 

一人でどこへでも行けるよ。

 

 

ニートブログの下

 

 

フライングなニートマンの著作書籍

 

★ニートの自伝

 

13歳の少年労働兵

「不登校×少年労働」編

愚か者の人生戦記第1弾は「生まれてから13歳で少年労働兵と成ってご活躍される」までのお話。既に中年サラリーマンの如き「労働と報酬の日々」を過ごしたひとの末路へつづく。

 

やることない体験記

「ニート×無目標」編

愚か者の人生戦記第2弾は「ニート化成った18歳から21歳までのやることがなかった」ころのお話。「仕事がなくなると人は一体何をするのだろうか?」という実験データに近いモノあり。

その後もニートだし今も半ニートなんだけどね

 

★「もしも働いていたなら?」ロールプレイングストーリー

 

シャケ弁労働者した元ニートの話

「もしも、ふつうに働いていたら?」

なシミュレーション。「シャケ弁食って働いて妹たちとゲームでもしているっていうのも良いのかもなあ」の未来を想った。

 

フェアレディZで通勤したキノコ工場で正社員してやることなくなった話

「もしも、そこからさらに正社員で働いていたら?」

なシミュレーション。「結局なにすれば満足なのコイツは」的な叙事詩が紡がれた。ある意味人間失格。

 

31歳までフリーターして落ち武者した話

「もしも、ならばフリーターしながら好きなことを目指していたならば?」

なシミュレーション。今に一番近いスタイルではあったけれども。

 

不登校から復帰して労働徴兵されるまで大学に隠れた話

「もしも、ふつうに学校へ行っていたならば?」

なシミュレーション。もうそこまで遡って人生を最スタートさせてみても結局のところ結末は同じだったというオチ。学校へ行く意味を分解してみたやつ。意外と一番のお気に入りコンテンツに。「労働戦士恐るべし。労働徴兵許すまじ。」

 

 

プロフカードぼたん

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