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ニートのプロフ

【とあるニートのプロフ】最後の余生時代(ひきこもりニート化/06年暮れ~09年春/18~21歳)

2015年9月19日

 

最後の余生時代

 

とにかくただボーっとしたり休んでいたしなにも観たくなかったしなにもやりたくはなかった。

晴れて記念すべきニート化の始まったのがこの頃というわけだ。

「とりあえずは休もう」ということだったけれど。

 

 

2007年/19歳ニートに非ず

とは言ったもののもともとそんな意識は毛頭ない。

働かざるもの食うべからず。

「こんな状態は続けていく気はないから少し休んだら征こう」と考えていた。

 

それが人間の美徳ってもんでしょ。

 

「生きる気がないから働かない。」

ここまでは了解した筋が通ってる話。

 

じゃあもちろん、

 

「働かないのだから食べない。」

ということでこの理論は完全となるわけだから。

 

働かなくても生きていていいだなんて思っちゃいないよ。

こちとらあの鉄人に育てられてるんだから。

ただ今は少しの余生なだけ。

 

あくまでも余生。

 

いままで嫌々頑張ってきたわけだから。

 

自立はするよ。それが素晴らしい。

 

でも生きる理由がないからきっと何もしないで死ぬだろう。

 

たったそれだけの事だったのだから。

簡単でしょ。

自然の摂理だもの。

春頃になったら飼い猫が1匹死んだ。

7歳くらいになっていた超絶甘えん坊の子が口内炎からかメシを食えなくなっていなくなった。

わりと泣いた。

 

時間はどんどん進んでいくんだなって思ったよ。

 

兄貴ももうこの家には居ないし。

妹だっていつ居なくなるかはわからないし。

周りは進んでいくんだなあっておもっていた。

でも自分にはもうカンケーないかもなーとも思っていた。

 

どんどんどんどん周りだけは変わっていくのだろうか。

 

オレはもうすぐ死ぬからカンケーないかな。

 

 

自衛隊と吃音

去年の春に18歳になる年ということでか自衛隊からハガキが来ていた。

その時はどうでもよかったが、

何故かこの時にふと思い出して何故か書いて何故かポストに入れてみた。

何かどうにかしたかったのかもしれない。

何故か。

いまでもよくわからないんだけどこの時の感情が。

頑張りたかったんじゃないだろうか。 何かを。

と今では思っている。

ゲームやアニメや漫画だけは見てきていたこの時期。

そんなものばかり少年ジャンプなものばかり影響されているとなにか熱くなるものがある。

なにか。

「それをやりたい」じゃなくて「そういうひとになりたい」のようなもの。

だから対象が何でもいい「頑張りたかった」という認識。

何かを目指して魂を燃やすような生き方に憧れたというのかよくわからないけど。

だからなにかしようとはしていたのかもしれないね。

でも自衛隊からかかってきた電話で吃音が凶悪なまでの猛威を振るってしまう。

 

「……………どうしました?……はい…はい……………どうしました?」
※声が出なくなるのでこうなる

 

このとき自分はそういう障害をもっているんだとようやく認識し始めた。

つまり吃音(どもり)

日本以外では言語障害になるらしい。

日本以外って(笑)

 

「アレ?おかしいな?アレ?声がでないぞ。
みんなそうなのかなあ(▽Д▼@ )」

 

とか最初は思ってた。

担当官の人は家にまで来てくれて話をしたけど、

結局ボクは普通の学校勉強ができない。

だからヤメた。

こんなことはすぐやめてしまった。

いろいろキツそうだしね

(*´艸`*)

 

なにがなんでも!

 

なんて思えるわけじゃないのだから。

受験勉強までして行こうとはまったく思えなかった。

なにせやる気はそうそうない。

生きる意味がわからないとか言ってるんだから。

 

やることがなくなった

ほとんどゲームはしないようになった。

それは2005年位から増えてきていて 2007年の夏頃にはコーエーの「ウイポ7」と「ブレイドストーム」を予約していたからとりあえず回収したのみ。

 

やはりここでも、

「ゲームでもやるかな」→

「こんなかんじにすすんでこんなかんじにおわるだけ」→

「じゃあもういいかな」→

とのシミュレーションを考えの中で経てしまうと「もういいや」となっていた。

もうその手の刺激には飽いたのだった。

とにかく2007年はやることがなかった。

 

産まれてはじめて「ヒマ」になったのかもしれない。

 

いままでの普通が普通じゃなくなった。

 

本との出会い

やることないから体力は余るけどやることはない。

だから運動して発散していた。

 

コンビニでPHP文庫の「世界の英雄がわかる本」的なものを買ってみた。
なんとなく。

 

本を読んでみたのだった。

自分で買って。

 

PHP文庫はものすごく薄い今日のNAVERまとめみたいなデザインの本だから本を読んだなんて言えないほどの絵本のようなもの。

 

見ていれば読めるというようなものだけど最初はそれだった。

 

家には兄貴が買い集めた本が図書館のごとくにあった。

兄が本狂いだから「まもって守護月天!」から「六法全書」まであった。

 

ボクはたいして関心も抱かずにいた。

だって難しそうじゃん。

こんなん無理じゃん。

本とか。

でもゲームもやらない。

ジャンプは一週後。

テレビドラマは観ない。

やることがないし、

 

何より娯楽はもう飽きた。

ただ消費するだけの物事には飽いてしまった。

 

それほどの遊びをしていないというのに。

 

本はその中で唯一のエンターテインメントになった。

 

出来るのにやらない。

 

檻などないのに自分で作って入ってしまうほどの責任感。


自分と社会の美徳の囚人。

 

そんな自分がこのとき唯一手にしてよかったものが本だった。

 

本なんてゲームやマンガやアニメや映画に比べたら人の目は惹かない。

ひと目で入ってくる情報量がぜんぜん違うのだからほとんどはゲームやマンガやアニメにいく。

ネット記事の世界でもあるように「最初に注意を惹く」のごときセールスポイントはこれらが強い。

それでも本を読むと静かに深く自分自身と対話できるような感覚があった。

本を読むと何かが「積み重なっていく」感じがした。

もうおもしろいことは「この中にしかない」からだんだんと読んでいく。

というのは後の話でまだこの時はそれほど読んではいない。

 

しかしもっとも大きな出会いとなったのが『戦争論(フォム・クリーゲ)』という本。

 

小林某さんの戦争論や爆笑問題の戦争論ではないクラウゼヴィッツの戦争論。

「東の孫子、西の戦争論」の戦争論。

元々ボクは歴史が好きだった。

最初は鎧武者たちがチャンバラしている勇壮な世界が好きで、

それに触れていくうちに「歴史」というもの自体にも惹かれ始めていった。

コーエーのゲームはこれ以上もないというほどの影響力を持った。

「三国志」、「三國無双」、「太閤立志伝」、「信長の野望」、「大航海時代」、「決戦」、

…などなど

「ジーワンジョッキー」、「ウイニングポスト」

…などなどなぜか馬も好きだったけど。

 

 

「何かできる人間になりたい」

 

 

この時期はそれらの人間として成りたい姿としての欲求が芽生えていた時期で、

必然的に歴史や軍事関係の本を読むようになっていた。

『戦争論』はノートに書き写すほどにハマった。

自分なりに理解したことは自分なりにまとめてノートに書き留めておいた。

漢字の勉強にもなった。

一日7時間とか読み込んで2週間かけてようやく一読した。

 

殆どわからないことだらけだけど、読んでいると何か「ひっかかる」ところが出来てきて分かるところが出てくると面白くなってくる。

 

3周ほど通読して、

枕元にあるから気に入った節は寝る前に読んでいた。

戦争の勉強をしていた。

なんてヒマなんだろう。

でもそうしていると落ち着いたし楽しかったのか。

すくなくともわりと「やりたい事」ではあった。

自分はこういうことがやりたいなあと思った。

どういうことだよそれ。

とも思った。

何に使えるんだよ。

 

いままでの世界が一つ終わって、

違った時間が流れると、

違ったことを行動するようになっていた2007年ニート初年度。

いや、まだニートに非ずとの認識。

だって余生なのだから。

いま思うとようやく自分らしい時間が産まれ始めていたのかもしれない。

 

 

2008年/20歳未だニートに非ず

「そろそろ征かないとなあ」 とは思って時は過ぎていく。

日々の運動をする以外はほとんどやることもなく過ぎていく日々。

『戦争論』を読んだ以外はまーーたく建設的な活動をしていない日々は続く。

 

たまに帰省してくる兄貴がパソコンで「大航海時代Online」のおもしろさを見せつけてくるから そのノートパソコンぶんどってプレイするもすぐにプレイできなくなるしね。(※兄貴が還るから)

 

そして「出来無いわけじゃない」のだ。

 

貯金も60、70万近くあるからPCも買えるし月々1500円払ったって1年で1万ちょっとだ。

 

時間もある。

 

やろうと思えばどれだけだってできたこと。

 

でもやらなかった。

 

やってもしょうがない。

 

やる資格が無い。

 

とかそんなこと思っていたのかも。

 

「もうそろそろかな」 との思いを明確にしだす。

 

そもそもあれからもう1年以上経つわけで。

余生といったって。

なにより日々がつまらん。

 

やることはあるようなないような、

ったところでどうなるともおもえないような、

意味ないっしょ。

 

そんな風にばかり思っていた。

 

自由になったって大したことは出来なかった。


自由な時間の使い方は知らなかった。

 

今まで言われたことしかしてこなかった人間が、

いざ自由ですと言われても何をしていいかわからないのだった。

 

何がしたいのかも。

 

 

まさに突如解放された奴隷のごときシチュエーションを満喫していた。

 

 

いや、そんなもんよ実際。

 

人なんて世の中が言うことをやってとりあえず安心するものらしい。

 

人が「悪い」ということ「やらない方がいい」ということだけやると安心する。

 

たとえ自分がしたいことでも人がダメと言ったらダメかもと思ってやらない。

それを褒められて安心。

でもその世界が変われば誰も褒めてくれる人はいないし。

家族、学校、職場、社会、

 

それから離れると自分で全て決めなければならないのだからね。

 

幕末の時に江戸幕府という絶対の社会が否定されて突如として世界観が変わってしまった。

絶対の正義が無くなってしまった。

それにだけ従っていれば良いというものが無くなってしまった。

そんな激動の幕末明治時代がボクにも到来していた。

 

 

 

 

 

 

 

それは自由という名の宇宙。

 

 

 

 

 

 

拠り所もない、目指すものもない、

 

 

 

 

 

 

 

ただただひろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい

 

 

 

 

 

 

 

だけの空間に一人いるだけの感覚。

辛いとかくるしいとかじゃなくなにも特にない。

しがらみもなにも。

測るものもない。

まともな知性を持っていればその状態はストレスになるけどね。

カーズみたいに。

何も見ようとしてないからか、

何も希望していないからか、

なにも見えない。

だからなにもする必要がない。

 

これが町みたいに造形されていれば入り組んだ路地や

漂ってくる焼き鳥屋の匂いや

高価そうな毛皮が巻き付いたコートを羽織ったマネキンでシーン演出したショーウインドウや

かっこいいスポーツカーを走らせている人や

今よこを通り過ぎていった可愛い子や

打ち上がる花火の音など。

 

何か引っ張られていくものがあるし、

刺激を受けて、

何か進んでいく指針になるようなものが出てくる。

 

「こっちから音がする、ああこうなってるのか、これかっこいいな、こっちに行ってみよう、キミは誰だ、結婚しよう、これでよかった」

 

のように自分の世界はがやがて形つくられていくから。

 

 

 

しかし自由すぎる宇宙はただただなにもなかったりする。

 

 

 

それまでがないから。

とも言える。

それまで何か持っていればこの宇宙でも続いていけるわけだけど。

引き継ぎ要素のあるゲームをイメージすると分かりやすいね。

でもその逆は、

例えばあるオンラインゲームのデータでどれだけ充実してようと別のオンラインゲームに行ったら関係なくなる。

突如今までいたのとは別の世界に行くとこういう事にもなる。

良くも悪くも。

 

 

でもこれは最初の反動みたいなものであって大したことではないのかもしれない。

 

 

あまりにも違う世界だったものだから慣れていないというだけで。

だから多くの人はさっさと引き返そうとしてしまうのかもしれないけどね。

 

暖房のきかせた部屋でコタツに入っていた人が冬の外にでると異常に寒く感じたりする温度差のように。

 

でも慣れてくれば慣れてしまう。

自由すぎる宇宙というのも考え方しだいなわけだった。

 

 

でもなかなかすぐには慣れてこない。

 

 

ただ何かしていないから不安になったりする。

えもいえぬどうしようもない不安。

多分何かしていれば紛れるのだろう。

たとえば働くとか。

もうそれは理由がないということでわかっていたことなのに。

同じ所をグルグル回ろうとする。

 

 

だから、

 

 

「そろそろ征かなければ」

 

 

自分をそう急かすのも無理ないことだった。

それでもこの2008年はたとえばPSPを買って「モンスターハンターポータブルセカンドG」とか買った。

 

相当に悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んで悩んだ末の末に買った。

 

貯金はあるのだからどうということもないのだけど、

行動して新しいことを始めるのに慣れていなかった。

「新作ゲームを買う」というアクションすら起こし難いほどの気力になっていた。

明確な理由があってそれを自分の脳と心が承認しなければこの程度のアクションも起こせなかった。

 

「だってそんなん意味ないっしょ」

 

「脳の拒否権が発動されればすべて廃案」だったのだから。

 

それでもあまりにもやることがなさすぎたから、

 

「もしかしたらこれやったら違う日になるかも」

 

という今考えると非常に怖い思考でアクションしてみたのだった。

いつもとは「違う日」がやってきたのかどうかはものすごく微妙なラインだけど少しは違う日だっただろう。

それくらい気力がなかった。

 

「なにしたってどうでもいいよ。だって、意味ないっしょ。」

 

考えの中では、

どれもこれももうどうでもいいものばかりだった。

 

偉大なる栄光、

灼熱の恋、

伝説の勝利、

全て遠き理想郷を追いもとめる勇者たちの冒険に比べれば微塵の魅力もなかった。

 

頭のなかで考えるそれは。

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フライングなニートマンの著作書籍

 

★ニートの自伝

 

13歳の少年労働兵

「不登校×少年労働」編

愚か者の人生戦記第1弾は「生まれてから13歳で少年労働兵と成ってご活躍される」までのお話。既に中年サラリーマンの如き「労働と報酬の日々」を過ごしたひとの末路へつづく。

 

やることない体験記

「ニート×無目標」編

愚か者の人生戦記第2弾は「ニート化成った18歳から21歳までのやることがなかった」ころのお話。「仕事がなくなると人は一体何をするのだろうか?」という実験データに近いモノあり。

その後もニートだし今も半ニートなんだけどね

 

★「もしも働いていたなら?」ロールプレイングストーリー

 

シャケ弁労働者した元ニートの話

「もしも、ふつうに働いていたら?」

なシミュレーション。「シャケ弁食って働いて妹たちとゲームでもしているっていうのも良いのかもなあ」の未来を想った。

 

フェアレディZで通勤したキノコ工場で正社員してやることなくなった話

「もしも、そこからさらに正社員で働いていたら?」

なシミュレーション。「結局なにすれば満足なのコイツは」的な叙事詩が紡がれた。ある意味人間失格。

 

31歳までフリーターして落ち武者した話

「もしも、ならばフリーターしながら好きなことを目指していたならば?」

なシミュレーション。今に一番近いスタイルではあったけれども。

 

不登校から復帰して労働徴兵されるまで大学に隠れた話

「もしも、ふつうに学校へ行っていたならば?」

なシミュレーション。もうそこまで遡って人生を最スタートさせてみても結局のところ結末は同じだったというオチ。学校へ行く意味を分解してみたやつ。意外と一番のお気に入りコンテンツに。「労働戦士恐るべし。労働徴兵許すまじ。」

 

 

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