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不登校ブログ 無職長征一万光年旅記

【デスステ鬱特急】そのままだとひきこもりニートは無気力鬱号でおさらば駅までまっしぐらだい。

2015年10月20日

無気力号デスステーションへようこそ。ご乗車ありがとうございます。本列車は絶望特急、終点「おわり」行き~「おわり」行き~♪

 

ひきこもりニートと鬱の名タッグ。

 

何故かニートになっただけで外に出れなくなる。

ただ「働いていないからニート」という訳にはいかない。

「活動できなくなる」という事にもなる。

ニートの日常や生活が生み出すわれわれの憂鬱。

 

 

ニートの無気力レール

①【負い目】

 
 

まず責任を果たしていない貢献していない自分の力で生きていないなどの負い目やはずかしさから人目につきたくなくなる。

 

②【必然性】

 
そもそも必然的に外に出る理由がないため外に出なくなって「外に出る」という感覚から遠ざかっていく。
 
 

③【美観】

 
 

そうすると自分の見た目に気を使うことも少なくなって「だらしない格好、ボサボサの髪型」になるので余計に外に出たくなくなる。

 

④【経済的】

 
 

働いていないので収入がない。だから見た目を良くすることも難しく外に出づらくなるし、あるいは外に出てもやれることがなくなるためにやはり外に出る意味がなくなる。

 

⑤【慣れ】

 
これ等のことが慢性的に持続すると大きなブランクとなって外に出ることに慣れなくなる。
 

⑥【自信なし】

 
 

活動する場がないから自信を得る場がない。よって活動力そのモノもなくなっていく。 そして外に出られなくなっていく。 イコール活動力が無くなる。 逆にこれ等をひっくり返せば活動的な人間が必然的にできあがるわけだけど。

 

社会的地位や実績と尊敬をもっていればどんどん外に出て人目についてよく見られたいし、

そういう人は外交的な活動をしているからあたりまえに世の中を飛び回るし、自分のスタイルやファッションを決めれば人に見せびらかしたくなるものだから出て行くし、収入があれば使いたくなって旅行や観光にも行くし、四六時中毎日毎日外に出ていれば感覚が麻痺してなにも抵抗を感じなくなるし。

 

実際自分も、

 

働いている時とそうでなくなった時では外の出やすさはちがったし、

仕事の帰りについでに本屋に寄るなどしていたし、筋トレや運動をするようになって人目につくことが多少は気にならなくなったし、 外に旅をした時などは野宿の連続だから一々気にすることもなくなった。金はないからそれはよくわからないけど、たしかに競馬場に行ってもそこまで買えるものがないというのはなかなかキツイものがあるし、そうなると余り行く意味は無いかなあとなってしまうし。

 

とにかく活動力がなくなる。

絶望

本列車は特急~特急~♪各駅停車はいたしません~♪どうぞ終点までよろしくお願いいたします。

別に外にでなくても活動はできるのにね。

それでも「動く」ってことが難しくなってきてしまう。

 

だってなにもすることがないんだもん。

というか今までやってきたことが全部できないんだよ。

 

そうするとやることがない。

人間は今までやってきたことしかできない生き物なのかもしれない。

 

それは「鬱」にもつながっていくだろう。

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他のお客様の御迷惑になりますのでカーテンをすべて閉めきってご利用ください~♪

鬱病というものも正確にはよくわからないし、今まさにそう診断されて入院しているような方々のことを勝手に定義するのもおこがましいだろうから、あくまで自分のイメージする又は体験に基づいての「鬱」について書きたい。

 

鬱っていうのは自分の場合は「辛い」というより

「未来のすべての選択肢が暗くなる」という感覚だ。

 

辛くても希望があればいいんだよ。

耐えて、あるいは工夫して、希望に向かっていけるから。

でもその希望が無いと今が辛くなくても鬱蒼とした気分になっていく。

未来がないから。将来がないから。

 

オレはやりたいこともないし、やれることもないし、というかなにも欲しくないし。

 

何に「絶望」するかは人それぞれだろうけどね。身長が低いとか。

 

たとえば彼女欲しい人が「オレ顔ブサイクだから一生無理だろうなあ」と思ってしまったらその時点で希望が無くなる。それが実際に無理かどうかは別として、その人がそう思ったら、そうなのだ。
 
それが絶望。
 
でも「そんなことない」と思えた時にそれに向かって活動していけるようになる。
 
すなわち希望だ。それが実際どうなのかは別として。
 
 
重要なのは事実かどうかではなくてそう思えるか思えないかね。
 
 

自分の場合はなにも欲しいものがなかった。

だから人生に目指すものがなかった。

だからなにも頑張りたくなかったし頑張らねばならないとしたらすげー辛い。

逆に言えばもう頑張らなくてもいいのならばとても楽な気持ちになれた。

だから自分は2006年あたりには幸福に人生を終われるという感情でいたのだ。

繰り返しになるけどその理由は人それぞれだろう。

 

とにかく未来に見れるものがないというのは。

 

でも何かしたいことがあれば取り敢えずそれに刺激されてなにか出てくるんだけど、何もないと無気力になった。

 

これからどうすんだろ。

どうなってくんだろ。

なにがしたいんだろ。

なにもないな。

え、なにもないじゃん。

なんかあるかな。

え、なにもないじゃん。

あ、なにもないな。

 

こんな感じ。

こんな感じだった自分は。

学校辞めたときはとりあえず働いて今を楽しんでたからそれはよかった。

ゲームとかね。

生きる意味や続けていく意味が分からなくなった時はゲームも何もかも殆ど無価値だったしどうでもよかった。

仕事辞めたときは多少はやることあったけどだんだん無くなっていった。

 

なにも触らないから何も思わないし、

そうなるとなにもしたいことがないからなにも身につかないし、

そうなるとまた何もできなくなっていく

 

活動力がなくなると何もしないから何も力がつかず結果として何もできない人間となってしまう。

その最初のときはそこまで考えないけど、

 

結果として何もできない人間になるのだ。

そうすると当然に何もできなくなっていく。

 

どんなに汚い欲望でも、

それに引っ張られて活動すると、

何かはできるようになる。

善いか悪いかは別として。

でも何もしないから欲も生まれず、

何もしなくなって、

なにも身につかない。

一時的にはいいし、

その時はいいけれど、

 

最終的には非常にあやうい。

「その時」にはもう自分に選択肢がないなんてこともある。

 

ズルズルとなにもできない人間としてなにもできないでいることになる。

途端にやる気を出そうとしても最初になにも成せないから「無理だな」とやらなくなったり。

そしてズルズルと無限ループする。

 

そして一番やばいのは「おわり」の直前になって正気を取り戻してしまうことだ。

bandicam 2015-10-15 04-28-04-723終点~終点~お出口はありません。人生のご利用ありがとうございました。

 

直前になったとたんに生きようとすること。

 

ひどい言い方だけどそのまま終われたほうが幸せだ。

感覚が麻痺して無気力なまま。

だが最悪なのは最後の最後になって「死にたくない」と思うこと。

 

その時点でやれることがどれだけあるというのか。

 

あるかもしれない。

実際あるだろう。

だが無いときもある。

まあ大体はあるけどね。

無いときは悲惨だ。

 

※そういえば列車つながりでアレだけど、うちの母親は元列車自殺志願者で線路に横になったことがあるという。体の上を通って死ねなかったみたいだけど、そんなんもあるからニートに寛大なようだね。

 

ニートに生きる「ニートのシリーズ」を踏破し「ニートの恐怖」で赦されない「ニートの極意」の超然思考。そこをみてからのページ!それは最後に笑えたら勝ちの世界。 

 

 

だから何かしよう。

 

 

 
無気力鬱号列車を無賃乗車ばりに飛び出してしまえばいいんだねうん。
 
こうとなればもう道理とか義務とか責任とかそんなことはどうでもいいから楽しむことを考えたほうがいいね。
 
上手くいったら後で乗車賃を払おう。
 
できなかったらごめんなさいで。
 
 

なにもできなくなってしまう無気力鬱列車への乗車。

 

ニートになるとそれは今までと違う時間が流れるのだから仕方がないのだけど。

でも基本的には「生活スタイルが変わった」というだけであって、

 

考え方を変えればいいだけだったりもする。

 

ピッチャーからバッターになったのなら「投げる」のではなくて

「打たなければならない。」

海にいた状態から空にいった場合は「泳ぐ」のではなくて

「飛ばなくてはならない。」

 

それだけのことでもある。

 

だから家に居るなら家に居るなりの活動の仕方というものはあるという認識をしていく。

 

本を読んだり、

サイト作ったり

活動の場はどこにでもあるからね。

刺激を受けたり考えたりすればやりたいことも出てくるだろう。

オレはそうだったよ。

 

気力

今はこうやって遊んでる。
 
気力2
 
無賃乗車のプロ。
 
いや元々の責任感が強すぎたり自分を縛り付けて身動き取りづらい人にはそれくらいか丁度いいって話よ。
 
「鬱」がそれ自体悪いということでもないんだけどさ。
・私は生きていた。【死がやってくるその時までボクの死生観をすべて話そう(其の一)】
・最強行動学。【死がやってくるその時までボクの死生観をすべて話そう。(其の二)】
「鬱」ってのもこんなリヴァイヴァルな良さも持っているのだ。すべては考え方次第の2面性。

スポンサーリンク/記事直下型2連装無職砲

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フライングなニートマンの著作書籍

 

★ニートの自伝

 

13歳の少年労働兵

「不登校×少年労働」編

愚か者の人生戦記第1弾は「生まれてから13歳で少年労働兵と成ってご活躍される」までのお話。既に中年サラリーマンの如き「労働と報酬の日々」を過ごしたひとの末路へつづく。

 

やることない体験記

「ニート×無目標」編

愚か者の人生戦記第2弾は「ニート化成った18歳から21歳までのやることがなかった」ころのお話。「仕事がなくなると人は一体何をするのだろうか?」という実験データに近いモノあり。

その後もニートだし今も半ニートなんだけどね

 

★「もしも働いていたなら?」ロールプレイングストーリー

 

シャケ弁労働者した元ニートの話

「もしも、ふつうに働いていたら?」

なシミュレーション。「シャケ弁食って働いて妹たちとゲームでもしているっていうのも良いのかもなあ」の未来を想った。

 

フェアレディZで通勤したキノコ工場で正社員してやることなくなった話

「もしも、そこからさらに正社員で働いていたら?」

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31歳までフリーターして落ち武者した話

「もしも、ならばフリーターしながら好きなことを目指していたならば?」

なシミュレーション。今に一番近いスタイルではあったけれども。

 

不登校から復帰して労働徴兵されるまで大学に隠れた話

「もしも、ふつうに学校へ行っていたならば?」

なシミュレーション。もうそこまで遡って人生を最スタートさせてみても結局のところ結末は同じだったというオチ。学校へ行く意味を分解してみたやつ。意外と一番のお気に入りコンテンツに。「労働戦士恐るべし。労働徴兵許すまじ。」

 

 

プロフカードぼたん

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