「それは、もうひとつの産業革命。」
時代の流れは、僕たちにその歩幅を併せてはくれない。
というゲーム業界では知る人ぞ知る荒削りながらも唯一無二の価値をもったレアゲーム、それが『バンピートロット』である。
2の発表も在りながら、会社の身内トラブルなどでてんやわんやで露と消えていたりいなかったりの幻のシリーズである。
そのキャッチコピーのごとく、あの産業革命期をモチーフとした自由度の高いプレイが楽しめるゲームである。
ニートが考える仕事シリーズ1「やめてくれ!そんな面白いことされたら仕事なくなっちまう!ってどうなのそれ?」 ニートが考える仕事シリーズ2「スーパーのレジ打ちが消え去る日。ウェルカム!トゥ!ロボティクス・エイジ!」
とある絨毯工場の決断。
そこにハヤブサ絨毯工場という生産拠点があって、
そこの絨毯を買って街に卸すと利益が出たりするんだよね。しかもそうやって利益誘導するまえに証券取引所でハヤブサ絨毯工場の株を買っておけば2重に儲けが出る。
というスタイルでもってそれなりな利益を追求できる良株である。
上場してるとはなかなかにやり手の工場長である。
奥様たちの髪の毛を買い取って商売した「紡績王アークライト」を彷彿とさせるではないか。
この工場に毎日やってくるおばさんたちがいる。
みんな横並びに紡績機に座って、
エッチラオッチラ絨毯造り。
あの奥さんがどうたらこの奥さんさんがどうたらとどうでもいいような世間話で盛り上がって、
だが楽しく働いている。
労働が終われば工場長たちのお家でみんなで夕飯をたべ、
今日の出来事や仕事の話でくだらなく盛り上がる。
そんな毎日がきっとずっと続くと思われた。
そして「機械導入の日」
やはり効率をさらに上げるために工場長は、ついに全生産ラインの機械化に踏み切る。
私が絨毯を街に棚卸し、
株価を上げて儲けていけばいくほどにイベントは進み、
工場長も野心が生まれていく。
おばさんたちはいつ職を失うか戦々恐々としている状況だ。
やはり様々な思いが押し合いへし合って、
工場長はついに決めかねてしまう。
そして私に委ねるのだ。
「あとはスイッチを入れるだけ」
私はすぐ押した。
株価を上げなくちゃならないからねまったく。
儲けを出してもらわにゃならんからね。
温泉開発にも投資してるんだから。
資金回収しなきゃならんのだから「とっととやれや」とばかりに私はそれを押した。
消えた笑顔。
その日から工場からおばさんたちの笑い声は消えてしまった。
物悲しげで暗いBGMが流れ出し、
ゲーム開発陣からのバッシングを受けているみたいだ。
べ、別にいいやないか。
このゲームはあえてそういった演出をし、
時代が効率的に移り変わっていく姿を「問う」てくる。
良いとか悪いとかではなく。
何かを得ると
結果として我々はいろんなものを代わりに失っていくけれど
しかしそれで得たものを頼りにして
「また新たに良い時代を作っていこう」としていくしかない
という話である。
と当時の私は受け取った。
進むしかないのだと。
良いとか悪いとかは早々言えないけれど、そのときの流れの中でその時の人間たちが選んでいった、あるいは選ばされたなかで生まれていく結果であるから。
そのあらゆるものが渦巻く波濤のなかで、
自らの歩き方を自分で決めていかなければならないのだろうと、
私は思った。
時代の流れは、僕たちにその歩幅を併せてはくれないのだから。
バンピートロット物語 完
「産業革命期」のデジャヴー
ゲームの所感はアレにせよ、
英国はマンチェスターが発祥とされる「産業革命期」にも同じようなことはあった。
それによる不安から過剰反応した労働者達による暴動が起きたりする。
「ラッダタイト運動」wikiみたいなものだよ。
共産主義に過剰反応しまくったアメリカ様の「いともたやすく行われるえげつない行為戦争」のように。
実際どうなったかということは歴史として残っていることだから言うことでもないけれど。
相手が「機械」でなくとも起きることでしょ。
機械といわず「生産性が上がることによって他の利益が落ち込む」という現象は、
先の「タクシー問題」を見ても明らかなように、
なにも機械だけのことではないだろう。
イタリア半島内の戦乱によって逃れる難民があって、
ヴェネツィアはその中の職人系の人たちを優先的に保護し、国内の技術を高めたりした。
難民移民の問題も、
その人たちに他と被らない価値があればそれほど問題にはならなかったりする。
しかし、
「全体のリーズナブルな生産性が向上することで、従来の職人などの権益者たちが困る」
ということは引き起こりはする。
だがジェノヴァは「それはそれ」「これはこれ」と、
機械で作られたものはそう表記し、
そうでないものには「ジェノヴァの」と表記させた。
いわゆる差別化であり、
これが後の「ジーンズ」の始まりとなったとか。
只今のお話はちょっとうろ覚えで確認もしていないので、
どれがヴェネツィアの話でジェノヴァの話かはゴッチャになっていたりするかもしれないけれど、
「まあだいたいそんなことがあった」ということで。
けっきょく「その仕事がさらに価値を持てるように工夫する」しかない。
というところに、熱々ながらも落ち着くわけなのか。
理想としてはそうならざるを得ないし、
そんなことは皆が皆わかることである。
ただ実際は「そんなこと言ってもねえ」ということになるということで。
こういった労働戦士たちに「そんなことを言っても」ってなるやない。頑張ってるわけだから。
現実として、
「それで固有の価値を保有し、高めて世の動きに柔軟にあるいは大きく影響されることなく、そして自分が食べていけるだけの金額をちょうど生み出せるような、「人にとっての価値」を数字の上でもクリアする」ことはなかなか難しい。
現実として。
だからそれはいわゆる「押し合いへし合いなんとかやっている」という『政治』に負わされる宿業みたいなものでなんとかやるのだろうし、やっているのだろう。
ただやはりそれでも、
「その仕事がさらに価値を持てるように工夫する」
ということはこうして、
やはり「重大なことなのだなあ」とは理論的に認識できることが出来るように思う。
自分でやってる身としては。
そしてそうであることは、
つまり意識としてしっかりと認識できるということは、
そうであろうとする際に真実味を抱かせるし、
だからやる気もでるし、
価値も認められるから、
やはり目指しやすくはなる。
はず。
でもどっちかといえば「コネ」のほうが重要度は高いと見ているけど。
「自分の価値」が半分、「コネ」が半分、
というくらいが基本的なのではないかな。
「半分半分の法則」である。
そして時々において「運」が8割くらい持っていってしまうという世界だよ。
桃鉄でも人生ゲームDXでも、良くも悪くもではあるにせよ、そうして逆転劇が起こるというわけである。
ただそれでも自分の価値とやらも半分くらいは影響力があるだろうし、
やはり大事なことや。
自分で今回の論考を見直してみると、
まあ目新しい問題提起をしているわけでもなく、
ショッキングな切り口をしているわけでもない、
ただ整理して考えていく、
という記事であるからあまり評価に値しないけれど、
やはり「自分の価値を高める」ということがどれだけ重要なことなのかを明らかにするという点では、
価値あるものであったと信じる。
おまけ「やっぱゲームって良いなあ」
学校の授業のつまらないことつまらないことね。
オレは歴史好きだけど、教科書や授業なんかではまったく興味が沸かなかったが、コーエーのゲームや横山光輝マンガでハマっていったんだよね。
結局、面白くないものには興味なんか出ないんだよ。
別にそれがゲームやマンガだから面白いとは限らない。妹が高卒認定のために歴史をやったけど、マンガなどの教科書もあったが全然覚えないからね。
「信長コンチェルト」はハマるのに。
結局、「面白いかどうか?」が全てだって確信したよ。
兄貴もそれで先生になってるし、まあそれだけじゃないけど、あのコーエー系のゲームを発掘しまくってる様を見てきたオレとしてはその影響力は凄まじいものがあると理解せざるを得ない。
なにも歴史ゲームに限ったことではなくて、
人は「面白いことからいろんなことを学べる」わけだということやで。
苦い経験や痛い経験も大きな経験値だけど、
それは結果論で、
人生の長丁場において、
能動的に、
「それをしよう」って経験していくなら面白いことしか出来ない生き物だと思う。
嫌なことや痛いことを好き好んでやり続けられるマゾはいないよそんなに。
成長するために最も必要なエネルギーはやっぱり「好きなことをやってその中から何事かを学ぶ」ということだってあらためて思ったよ。
『大航海時代』も『バンピートロット』もまさにそれだったから。