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ニートの生活費 無職長征一万光年旅記

【月13000円でどれだけ生きられるのか?】だれでもやれる仕事なんかないって。みんなどこかしらおかしいんだから笑。(ニートの実家暮らし⑤)

2017年4月5日

13000円ニート

 

ニートブログの収益と実家ぐらし第5弾。

 

やっぱりやっぱり毎度毎度のことながら、

なぜ増収しているのかわからないけどもとにかく増収したので更新されるニート・ザ・デッド・オア・アライヴのお時間です。

そんな謎の増収を重ねるこのブログの行末やいかに。

ありがたい事やでまったく神にでも祈っておこうかなまったくここまでくると。

 

 

月13000円でどれだけ生きれるの?「ホームレス」と「ニート」のばあい。

野性味あふれる外で寝転がりスタイル

「ホームレスポンシブドリフタースタイル“馳夫ライフ”」
通信費ネット/モバイル1000円計2200円
ドメイン200円
サーバー1000円
食費食料「栄養素を取れるもの×マックやスタバ」
★増量
4500円
★1500円
計6000円
★7500円
水分「スーパーのお茶缶1個50円×30日」1500円
清潔費★銭湯2000円
★洗濯★500円
エネルギー費電気マックやスタバ1品代? -
ガソリン- -
暖燃料- -
寝床テント泊 -

※前回までの収益では黒文字、今回の収益によるプラスは★橙文字

食費がさらに増量。銭湯も月4、洗濯は月1。

もうここまでくると「この増収をどう使うのが良いのか」よくわからなくなってきましたよね。目的にもよりますからね。生きる目的にも。個人的性質として日雇いやバイトはしないから清潔費はそんなに要らんでしょうということではあるけれど、

 

寝床は欲しい。

 

さすらいテント泊ならば自転車日本一周者たちもこなしているわけであるからそれほど問題はないと思われる(危険はコミコミプランだぞっ)。というかちょくちょくやっとるしね。

 

コインランドリー月1回。銭湯は月4回というリッチ費に振り分けてみたけれど。

 

まあユニクロの抗菌作用のある「エアリズム」やら「ドライEX」やらという装備を事前に用意してあるからそこら辺はあまり汚くはならないのだまったくよろしくお願いします。あれすごいからね。山登りで汗かきまくっても全然汗臭くならないから。すごいから。お願いします。

 

そしてやはり食費はそれなりに幾らでも増費が望まれてしかるべきカテゴリーだ。

 

「月6000円時代」ではなんと「おにぎり一日1個」という栄養失調メニューでありましたからな。それから「月9000円の御世」ではようやく「おにぎり一日3個」という人道的配慮がなされたわけでありますけれども。

 

今回はそれプラス「サラダ関係などのミネラル食材」を確保するに至ったというわけである。

 

ただ、これなら普通のホームレスの方たちのほうが良い暮らしをしていることだろうて。ホームレススキルはそれほど無いのが私である。野に降ろうとやはりひきこもり気質なのである。

 

実家の大臣スタイル

「アドバンスドホームチャンセラースタイル“ジ・ニート”」
通信費ネット/フレッツネクスト光6000~円計7200~円
ドメイン200円
サーバー1000円
食費米/日2食30日2000円計2000円とX
食材X
エネルギー費電気★2500円
ガス
水道地下水汲み上げの為に無
税金国民年金-(約16000円)
健康保険★1500円1500円/5000円~?
住民税--
地球市民税プライスレス-

※前回までの収益では黒文字、今回の収益によるプラスは★橙文字

「保険料」でも払うかね。

いや、実家で世帯同じくしていると減額控除が受けられないみたいだから満額は支払えないだろうけども。そこは収入のある家族いると「じゃあ払ってもらって」とばかりに全額持っていかれるというわけで。

 

だからあくまでキモチ的なところで「保険料は払えるかな」ということで。(自分の収入で見た場合に減額控除された分の)

 

医療ってすごい技術なわけでね。だからその技術を受けるとなるとどうしても高額になってしまう。ゆえに「医療費の3割負担で済む」というのは素晴らしいことであるとなんだか実感してしまうニートである。

「ジョンQ ―最後の決断」なんか観たらそんなこと思ったよ。

「この保険料でこういったことに役立っているのね感心だわ」的な。ニートの自己満足的貢献心の真骨頂的心のゆらぎ的思い的なことである。

 

あと大腸がん検査で内視鏡した時ね。

参考【可能性ゼロの挑戦】まずはその舌の根から焼き尽くしてやろう。

参考さあ、2014年の夏を越えて(▽Д▼@ )

 

あとは電気代とかそんなエネルギー費にでも当てておくかと。

払わんけどね。

やっぱりニートは払いません。

 

 

とにかく“あのニートが”さらにさらに自炊可能になったということ。

ニート・ザ・デッド・オア・アライヴ

 

ただの貧困のブログになっていきそうではある。

 

ただのスーパーワーキングプアの人となっていく感は否めないが、背に腹は変えられんとばかりに甘んじて収益を受け取ろうではないか。

ニートニート言うてて得したことないわ。

結局、ニートたちは労働したいらしいし愚痴しか見たくないらしいし、もっと悲惨なニートを見たいらしいし、

輝きすぎている我みたいな存在は見たくないという事らしいお願いします。

そこは新種のニートということで定義付けしたんだしまあ良いでしょう。あとは200年後のニートたちの励みにでもなればオッケーである。

 

今はこの資金も、

とにかく自分が使えるものなんでも総動員して「あの運命」に立ち向かい、

我が人生を「生ききって」見せるのである。

よくわからないものと戦っている。

 

 

他の人らはさ、我々みたいになったら“仕事”できんのかね?

人それぞれ

 

みんなが出来る仕事なんてないと思うよ。

みんなどこかしらおかしいんだから。

 

「Newニート誕生シリーズ」「ニートが仕事を考えてしまうシリーズ」などでそれなりに突っ込んで来たけれども。ニート的な遠慮がちな精神から解き放たれつつあるけれども。

 

手がない人は「しょうがない」と思われるのに、性格の違いはほとんど考慮されないのだ。

あえてこういうことも言っていこう。

というか全然、「違う」だなんてことはないのだ。

彼らと我々と、

さらには「一般人」すら。

 

「体の形のちがい」は理解されても、「心の形のちがい」は全然理解されない。

「心のかたち」の違いというものが、どれだけその人生と社会における在り方について影響を与えて、遂には決定的なまでの相違を生み出すのかは、「結果」としては明らかなのに。

 

「結果」が出なければ「その違い」は理解されないのだ。

つまりそれで「自殺する」とか「iPhoneを生み出す」とかなんとかしなければね。

 

目で見えないものは判然としないから。

物理的に視認できなければ、なかなか証明できなところがあるからこれも致し方なしな部分ではある。オレだってそう思うからね。なかなか口で言ってるだけのことは信用しないだろう。うん。

 

自分がそうでなかっただけで、もし、自分がそうだったら?

たまたまそうであっただけ。たまたま今の世のスタンダートに属す形に生まれただけってのは大いに有り得る。それが良いとか悪いとかは別として。

 

たまに「ニートの試み」を馬鹿にするだけで否定するだけの学者気取りがいるが、何なのあの無能どもは?

ニートが何かしら自分のなかでできることをやろうとしているような、ニート株式会社みたいな試みを否定してみたところで、じゃあ「それが何の価値があるのか」って話だよ。

 

「その否定はどんな価値があって、どこに到達する考えなのか」って話だよ。

 

不毛すぎて話にならない。ただ自分の中の正義を正当化するためだけの毒吐きで何の価値もない考え方。不毛な言論で不毛な表出。

 

そして結局は「ただ働け」という案しか出ない。

 

そいつにはニートが働こうがどうなろうが基本的にはどうでもいいのだから、ただその理想論しか存在しないしそれ以上のことは必要が無いから。

 

十字軍時代のキリスト教徒がイスラム教徒の教理を理解する必要が無いのと同じで。

 

じゃあおまえが「ニートを働かせられなかったら殺される」となったら、「どうやって働かせるのだろうか?」

 

結局のところこういった輩は「力づく」しか思いつかない。

そしてニートと血みどろの闘争を繰り広げて戦果を拡大させるだけで、遂には自身すら刺し違えられないというわけだ。

 

これを無能という。

 

「イスラム教徒は間違っている。それを認めなければ正す事はできない。そしてそれなら悪魔だから殺すしか無い。」

 

これをコミュ障という。

 

無能でコミュ障な人間はニートと呼ばれる我々となにが違うのだろうか。

 

仕事をしていようとそれはただ「そいつにたまたまできたこと」だっただけだろう。

 

それをさも「自分だけのチカラ」などと思い誤って、運が良かっただけなのに、

 

「同じようにしていても落ちていってしまった」人間のことなどには思いを致せない。

 

このような輩は押し黙っているが良い。

 

何の価値にもならないのだから。

 

行動を起こしている者をそれがどのようなものであれ批判するな。その先が暗いだなどと知ったふうな口を利くな。ちゃちなPV稼ぎのためだけに問題を複雑にするな。

 

無能でコミュ障なのだから。

 

「自分もそうなっていたかもしれない」と思う者だけが彼らや我々に相応しい。

という具合に、
「他を理解しようとしないで毒吐きばかりしているとただの戦争にしかならない」から、ちゃんと相手の気持を汲んだ対話コミュの姿勢が大事なんやで。それがいつだって問題を前に進ませると思うね。それができないなら一切関わらないことだ。

 

 

労力は時給と労働時間だけで計れない。

 

「自分にとってそれほど苦でないこと」をするのと、

「自分にとってうんざりするように苦になること」をするのと、

同じ労力だろうか。

 

絶対に違うだろう。

 

うちの飲食店が借りてる地主の大家は、代代受け継いだその土地から、自分がリスク負って買ったわけでもないその受け継いだ土地から毎月十数万もの地代収入を得ている。苦労しているのはオレの親父のみ。他にも土地は所有している大地主なので不労所得は相当な金額なのだろうと推察される。

 

そこの奥さんはもう働かなくてもいいのに、馴染みのパート先へ勤めに出ているという。

 

人と触れ合いたいからなのか、動いていなければ気が気でないからなのか、ボケ防止のためか、その職場で必要とされているからか、何かの向上意識からか、とにかく好き好んでそこで働いているのだというわけなのだ。

 

これだけで「絶対に違う」というのがわかるじゃん。

 

「ベーシックインカムの話シリーズ」から、「最低生活費が出ても行動する」というのはまさにこのようなことで、

 

それが好きでやりがいがあるなら放っておいても勝手にやりだすんだぜ。

 

オレだって接客が好きならコンビニバイトでもやるさ。

だが時給1万でもやらんからね。

2万ならわからん。

 

オレはこの“遊び”は好きだから1円にならなくても続けられた。

このブログも2年は無銭でやっていたし、そもそもアクセスだってないんだぜ。

というか今でもニートカテゴリ類のアクセスなんてないんだぜ。

つまりだーれも見ちゃいない。

やり甲斐ゼロよ。

自分がそれでも「そうしたい」という理想があるからやってるだけで。

だからやり甲斐ゼロではないか。

 

月480時間×3年ぶっ通しでこのコトを考えてきた。

 

派手めに言えばね。実際は旅行にも行っとるけどね。気分転換だよね。同じ遊びばかりじゃ飽きるからね。

まあ遊びだからね。

 

でも「これはオレにとってうんざりするほどの苦じゃない」から「できるはできる」というわけである。

これが世にそうであるような普通に給料が出る行為ならば普通にバイトもしただろうし、普通に就職を目指したかもしれないというわけだ。いや、

というかこの話の流れならば「した」のだ。

 

勿論、つまり「仕事のシリーズ」で考えてきた様に、

実際はそれが人に対して「提供価値(サービス)」を有していなければ金銭は発生しないというような法則があるのだから、

仮定の話にすぎないけれど、

 

遊びだって真剣にやってれば嫌なことや苦痛の4つ5つは出てくるわけだ。

 

本当にお気楽でやってたらもっと楽だよマジで。息抜き程度にだけ、挑戦もしない、工夫もしないなら。

でもいやでも成果が突きつけられて、投げれない、失敗してもリセットできない、遂には自分自身の価値そのものまで問われる、とか制限あったら好きなもんでも嫌になるよそりゃ。

金にはならねえし、

人も見てねえし、暴言は吐かれるわ、陰口はいわれるわ、

金は稼げねえわ、批評されて好き勝手いわれるわ、

金にはならねえわ、なんでも、

 

何かに挑めばそれが遊びでも痛みや苦しさってのはあるからねなんでも。

 

でもそれでもやり甲斐を感じるし好きだし、

 

何よりそれが「オレにできるものなんだ」ってことが

 

全然

 

まったく

 

死ぬほど

 

絶叫したくなるほど

 

違うのだ。

 

 

「我慢」にも限度はあるやろがい。

この世に生きてる以上は、嫌なことなんていくらでもあるよそりゃ。

誰にだってあるよそりゃ。ニートのオレにだってあるよそりゃ。

代代受け継いだだけの土地からオレの親父の働きとオレの青春時代を捧げた月3万円の労働でもってベーシックインカム生活してる地主だってそりゃあるんだよ嫌なことは。

 

一度病気で死にかけてるときに弱っていたらしいしね。その隙を見計らって地代を引き下げることに成功したらしいしね。

 

どっちが良かったんだかって話だけどねこれは。

「踏んだり蹴ったりだ」という話も聞かれるけどねこれは。

 

だから嫌なことなんて誰でもあるし、生きてる以上は誰でもその「自分なりの苦痛や苦悩」に耐えてるんだ。

 

それは自分なりのものなんだ。

 

わかる人にはわかるし、

わからんやつには一生わかんないんだよ。

わかろうともしてなんだからさ。

 

やれるものはやれるし、

やれないものはどうあってもやれない。

 

そりゃ一時的なショック療法的に切羽詰まってやむにやまれずやれることはあるだろう。

だがそれを人生の長きに渡って続けていけるわけがない。

たしかにその一歩で変わることもあるだろう。

だが殆どはどこかで同じようにまた破綻するから。

破綻するから。

知ってるから。

そして、続けていける人間がいるなかでは、それはあまりに不利な人生になる。

 

自分にとっての普通が、人にとっても普通なわけがない。

自分にとっての普通ができることなど自慢には値しない。逆に、だからそれができない人間を当たり前のように批難することはできない。逆にそいつが普通にできることができないこともあるのだから。

 

だが別に我慢することはないから、「自分の普通から」やっていけばいい。

とはいえ、やはり「仕事のシリーズ」においても明らかなように、「金になる」には仕組みが必要であるから、その自分にとっての普通が「金になる」とは、まだ、限らない。そう、まだ。

まだ1万3千円なのだ。

月480時間の行動の結果が金銭換算してしまえばそれなのだ。新種のニート的ライフスタイルであるから良しとできるのであって、家族を養う家計では到底問題外。

 

だからどうしたって不都合が生じ、

なんだかんだで「我慢」してお金を稼いで生活していかなければならない現状が横たわるというわけである。

 

これまでのお話や主張はあくまで理想論で、

いや現実ではあるけれど、

「そうあるべき」とか「そうでありたい」という欲求それ自体はやはり理想的なものであり、

 

基本的には誰でも「わかってはいる」ものなんだろう。

 

ただやはりこの「不都合」という現実が、

とうとうと歴史とともに横たわっている現状に対して、

よもやそれを横断しようとは理性ある人間をしてそう思わせないのだ。

 

でもそんなんしらんがな。これしかできないし。やりたくもないし。

ということでやっていける場合のみ可能。家の支援があるだとか、何だとかで恵まれていたりする場合など。

 

その「恵み」とやらも、

結局のところは環境でしかなくて、

それをどう捉えるのかということも非常に重要なんだ。

 

あるときにはそれが「人を弱くする」し、

でも「こうなったからには利用させてもらったほうが良い」ともなるし。

風とか太陽とか海とかと全く一緒の事だ。

 

つまり誰にでも『利用できる環境』というものはある。

というかそう考えないと不利な状況では『やりよう』がない。

 

何事も一概に良いもの悪いものってのはないと思うね。

中華思想の2元論じゃないけれど。

 

そんでそれでやっていけなくとも、

「自分がこれしかないってことをやって生きて、生きれないなら未練も悔いもない」

って思えてしまったらそうするしかないから。

よく言ってることやで。

 

一番わかり易い例え。

 

「数年間、他の誰とも話すことすらしないで、パソコンを叩き続けられるのか?」

 

普通の常人なら発狂すると思う。

 

でもオレには可能。

 

人の評価や賞賛や共感や同意など3の次だから。

 

でもそれは「地上の生き物が酸素を必要とする」ように、常人には無理なことなんだよきっと。

でもオレはそんな酸素がそんなに要らない生き物だからできるんだよきっと。

 

これだけ違うってこと。

 

 

トラが崖から飛び降りたら死ぬ。

タカが地上を歩いていたら喰われる。

サメが陸へ揚がればなにも身動きすらとれずに干上がる。

 

 

これだけ違うってこと。

 

人間の中でも。

 

「世」にむけてなんか言ってないんだぜ。

このことはほとんどが言い訳として処理されるのが「ザ・自己責任大国日本」であるから。すべてがすべて自己内省的に「自分自身のせい」という清廉なる精神性を美徳とする民族であるから。

 

だからそんなことを言っても無駄な話。

 

自分と同じような不登校ひきこもり無職ニート的な完全アウトローロードを歩んでくるだろう心の形を持った人間に向けて話をしているというわけだ。

 

自分は中華思想を学んでいるから「超自己責任論者」だし、「超自己内省的性格」だった。

 

でも結局その結果は、

 

「だから自分を殺そう。」

 

としかならないのも知ってる。

 

自分自身が課す高い高いハードルを越えなければ、遂には越え「えなければ」、自分自身は「死ぬべき存在」でしかないからね。

 

いや、「蔑視」する存在でしかないからね。

 

死ぬのはいいんだよ。人間いつか死ぬから。

 

でも蔑視はいかんよ蔑視は。

 

誰がいつどれだけ見捨てようと、

少なくとも、

自分が死ぬって時に最後まで付き合ってくれる自分自身を蔑視して死んではいかんと思うな。

 

一時的にはいいけども。

それで奮起するときはいくらでもあるのだし。

 

まあこれはオレの哲学の押し付けだけどね。

 

だが最後に何かを恨んで死ぬなんてさ。

そう生まれてきた運命とか、そういう形に生まれたこととか、

そんなよくわからない自分の手のかかり様もないようなことを今更呪いながら死ぬなんてさ。

 

それなら、

 

どうせ死ぬならやるだけやって、

あくまでも自分自身が自分自身を褒めてやれるくらいにやるだけやって、

 

「こんな素晴らしいオレを見捨てる世界はクソだったな(笑)」

 

ってくらい気持ちよく死にたいね。

 

もはやこれを言いたいがために生きている。

そんなビールみたいに。

 

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フライングなニートマンの著作書籍

 

★ニートの自伝

 

13歳の少年労働兵

「不登校×少年労働」編

愚か者の人生戦記第1弾は「生まれてから13歳で少年労働兵と成ってご活躍される」までのお話。既に中年サラリーマンの如き「労働と報酬の日々」を過ごしたひとの末路へつづく。

 

やることない体験記

「ニート×無目標」編

愚か者の人生戦記第2弾は「ニート化成った18歳から21歳までのやることがなかった」ころのお話。「仕事がなくなると人は一体何をするのだろうか?」という実験データに近いモノあり。

その後もニートだし今も半ニートなんだけどね

 

★「もしも働いていたなら?」ロールプレイングストーリー

 

シャケ弁労働者した元ニートの話

「もしも、ふつうに働いていたら?」

なシミュレーション。「シャケ弁食って働いて妹たちとゲームでもしているっていうのも良いのかもなあ」の未来を想った。

 

フェアレディZで通勤したキノコ工場で正社員してやることなくなった話

「もしも、そこからさらに正社員で働いていたら?」

なシミュレーション。「結局なにすれば満足なのコイツは」的な叙事詩が紡がれた。ある意味人間失格。

 

31歳までフリーターして落ち武者した話

「もしも、ならばフリーターしながら好きなことを目指していたならば?」

なシミュレーション。今に一番近いスタイルではあったけれども。

 

不登校から復帰して労働徴兵されるまで大学に隠れた話

「もしも、ふつうに学校へ行っていたならば?」

なシミュレーション。もうそこまで遡って人生を最スタートさせてみても結局のところ結末は同じだったというオチ。学校へ行く意味を分解してみたやつ。意外と一番のお気に入りコンテンツに。「労働戦士恐るべし。労働徴兵許すまじ。」

 

 

プロフカードぼたん

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