あるいは、
「25までは大丈夫かな。」
とか。
なにも大丈夫じゃあない。
「そこまで大丈夫」だと思っているなら、できるだけ早くはじめた方がいいに決まっている。
ソッチの方が絶対にいいじゃん。
皆が100メートル地点から走る中で自分は余裕の50メートル地点からのほうがいいじゃん。オッサンになってからこき使われるよりガキの頃にこき使われてるほうが皆もそうなんだし恥ずかしくないじゃん。
パワプロで1年生の頃からミートAあったほうが余裕じゃん。
25やあるいは30で働くつもりならさっさとやっちゃった方がいいじゃん。
将来にやることが決まってるならさっさとやっちゃうほうが。
働くつもりなら。
その間になにすんの?
「25まで大丈夫ってことは~~~?」
「それまで遊び放題じゃん!!!!」
ってことなのか。
いや、やることが決まってるんならその為に必要なことをもう始めちゃった方が良いよね。
そして25になったら「30までは」とか言い出す。
そしてこれは悲しいことに永遠と続く。
死ぬまで。
1日ムダにするとその1日後に同じ理由で1日ムダにする。
歴史と同じだ。
歴史は繰り返すというけれどまさにそう。
それがなにか1つの転回点をキッカケにして変わり始める。
「その時」というやつである。
またはカタストロフともいう。
「1200年代のカタストロフ」が有名だ。
紀元前1200年頃に起きたドーリア人の南下や海の民の侵入やらなにやらで一気に世界は変わった。同じように繰り返していた西方世界は激動した。
つまり「自分になにか決定的なことが起きないかぎりその状況は続く」という法則なのだ。
「25まで大丈夫」と思ってもそのために何もしないならなにも大丈夫じゃない。なぜならあくまで「今」が大丈夫なのであって、25になったその時にはすでに大丈夫ではないからだ。
「25になったら本気だす」というのは、なにか決定的なことが自分の中に起きれば可能だ。キッカケが。
だが今日のままで、
ただ過ごして、
明日を迎えても、
なにも変わっていない自分なんだよ。
だから同じ選択肢を繰り返す。
「30までは大丈夫」って。
その次は「35までは」だ。
なんでか5進法。
「働くのか、働かないのか」ハッキリさせたらいい。自分の中にカタストロフを起こす。
カタストロフィーとは周期的な秩序だった現象の中から不意に発生する無秩序な現象の総称。
カタストロフ理論
「働かない」と決めちゃえば、「25までは大丈夫」という理屈が使えなくなるから。
25まではみんなてきと~にフリーターやってるし、そんなのやろうと思えばできるし、やったところで職歴にもならんし、じゃあやらなくていいし、大学卒業したくらいで皆いろいろと遊んでるし、まあ大丈夫でしょ。
「働く」が前提だからこのような理由に納得もする。
まあたしかに遊学歴というのは経験豊富になれるからいいと思うけどね。
しかし、
「働かんぞ」って決めちゃえばもう周りにそんなに比べられる人もいないし、とにかく働かないで済む方法を今から模索することになる。
つまり目標の違いでやること成すことは変わってくる。
変に「将来は働くからダイジョブ」なんて思ってるから先送りになる。
というより将来にやることがあるならば、もう今すぐ始めないとすべて先送りになる。
やらないと先に進まないから。
やらなければずっと予定のままだから。
やることで次の展開になる。
「働く」と思ってるならさっさとバイト。日雇い。就職面接。ハローワーク。やっとかないと先に進まない。あるいはスキルアップ。つまり職業訓練なりなんなり。
そうしてはじめて次に進む。
うまくいこうと、ダメだろうと、先には進むんだ。
うまくいったらとりあえずは「25までは大丈夫」という読みが的中してよかったわけだ。25になってたらもう大丈夫ではないという読みなのだから。
ダメだったとしても、「もうオレは働かない」という目標が生まれる。
これは「30までは大丈夫」という先延ばしではない。
次の展開だ。
この時点で「働く」という目標が消滅するから、「働かない」ようにするにはどうするかという目標に変わる。
そのために今ある時間と労力を集中していけばいい。
キッカケと行動が必要。
とは言っても、人間行動するのが最も難しいといえる。だから先伸ばししてしまうんだし。オレもいろいろそうやってきているし。ゲームは作らねえし。
やっぱりどこかでキッカケを掴まなくてはならないのだ。
基本は「デスジャーニー」が効果抜群だ。経験からモノを言うことが許されるのなら、このブログでは最良の方法としてゴリ押ししている「独り旅」。
【ステップ1】まず自分のすべてを考える。
いくらなんでもニートに在って、少しの危機感も持っていないという人はいないかと思う。
ネットゲームにハマっていたりすると麻痺してしまうかもしれないけど。あるいは「生きる気がそもそも無いので」とか。
まあその場合にも前述の「先延ばし理論」は完全に当てはまるから「デスジャーニー」は依然として有効だ。
死ぬつもりならさっさとやったほうが手っ取り早いということでね。死ねるならそれでいいし。どうせ人間いつかは死ぬから死ねるときに死ねるならそれは幸福だと思う。
だが死ねないのなら早いうちからそれに気づけていいわけだ。
とにかく自分のこれからや自分の望みや自分の人生の1から1000くらいまで一通り考えてみたりする。
※ニートになりたての人はとにかく大事だと私は考える。すべてを見直す時だと素直に思う。自然に。
そうするとどうだろうか。
今の自分はそれとどれだけ違うのか。あるいはどれだけ遠いか。現状がどうなるのかの予想を立ててみたところでなにを思っただろうか。
【ステップ2】危機感を募らせる。
そうすると一瞬でわかるだろうけどいろんなことが絶望的だ。
そうじゃないならそれは幸福なことだ。言えることが許されるならその幸福な状態を持ってできるだけ努力することをおすすめする。
だが基本的にはあまり好ましい状況ではないだろう。
あえて具体的にはいわないけれど。良いか悪いかというよりもね。「目指したいものがない」ということも事実だろうけど、それ以上に、「目指したいものが在ったとしてもあまりに遠い」と感じられるかもしれない。あるいはそう感じるより先に、そういう状況が納得いかないが為にはじめから「なにも目指したくない」と結論付けてしまうかもしれない。
とにかく危機感や「これからどうしようか」を本気で考えるキッカケにはなるかと思う。
【ステップ3】あとは死ぬしかない状況だ。
この時点で「あ、オレやばい!働かなくては!そうでなくともあるいは何かしなくては!」と思えるほど精力的な力が残っていて、欲もあって、動ける人はそれでいいと思う。
しかしそうではないならもう死ぬしかない。
これは別に悪い意味でもなんでもない。「なにもないならあとは死ぬだけ」という自然の摂理的なことなんだと思う。私はきっとそう思う。そうとしか思えない。だっていつかはみんな死ぬのだから。
「さあ、いよいよ私のその時がきた」というだけで。
【ステップ4】独り旅に出かける。
とはいえまだまだ何かあるかもしれない。
せっかくのこの命に対して礼を尽くしてやろう。
「まだ何かあるかもしれないなあ」というくらいには。
独りになって、おそらくは自分が今まで見てこなかった「外の現実の世界」を歩いてみることをおすすめしたい。
淡く描かれた水彩画の世界でもないし、つやつやなセル画の世界でもないし、CGグラフィックスの世界でもないし、ポケモンが飛び出してきてボールで捕まえられる世界でもないし、勿論モンスターを倒してもお金なんて落とさない世界。
さらに絶望するだろう。
自分の考えは正しかったとさらに確信するだろう。
こんなところで生きてなんの意味がある。
死んで正解だと確信するだろう。
でもだからこそ、
そこから帰ってきた時には、
「生きる意味」が明確になってる。
まあ少しはね。
それ以前の先延ばし症候群のように不鮮明でなにが何やらなにがしたいのか、どうしたいのか、どうなりたいのか、といったことよりは。
少しははっきりする。
なぜなら、
あの絶望的な状況のもとでわざわざ帰ってきたのだから。
なにか生きる理由でもなければわざわざこのクソみたいな世界には帰ってこない。
それは一時的に持たされたものかもしれない。
死神にでも。
あるいは自分がそれから逃げおおせるために急いで仕立てあげた程度のものかもしれない。
でもわりと納得できる理由だったりする。
それは1つ、目標だ。
目標が決まればあとはやるだけ。
そうとなればもうここでは恥ずかしいくらいに言ってるお約束の方程式。
に繋がるからそれは良いとしよう。
ここで言いたいのはこういうことだ。
すなわち、
先延ばしは時間を侮辱するだけ。
ということ。
「25になったら仕事するから」と言うならもうやったら良いってはなし。
やったあとで、
「自分には無理だな」となったら次に進めるから。
やらなかったら、
「30までは大丈夫」を延々と繰り返す。
繰り返せたら良いほうかもしれないけど。
基本は自分に言ってんのさ。
あらためて。