ジョジョの奇妙な冒険 第1部 ファントムブラッド
前回までの考察は
「こちらの世界における精神世界での成長過程に当てはめた場合の考察」
だったわけである。
じゃあ
「そのままDIO自身の天国とはなんであったのか?」
となればどうかということもあえて進めてみたい。
DIOの思想は『勝利して支配する』
ということで自らカミングアウトしておるね。「それだけが満足感よ」って。しかしまあ実際は言ってることが全てではないし、変遷や揺らぎや迷いもあるだろうし。でもそんなこと言ってたら絶対わからんけど。
不死身!不老不死!スタンドパワー!
「言われなくてもこの世界で一番の金持ちになってやるさ!」
といった具合に、青少年期のディオ・ブランドー君はクソ親父の死に目に心で宣言をしている。この時点では「金持ち=頂点」的な俗物的思考だとみてとれるかな。そもそもなんでこんなに上昇志向が強いのかといえば、よくある精神表現として「子供の頃はどんな親だろうと親父が絶対主権者であり逆らえなかった」といった屈辱に対する反骨精神の成長なのかね。そして人間世界の力といえば真っ先に『金』と。
「人間をやめるぞ!」
深謀遠慮なるディオは「人間という枠組みである以上、あの汚らしい存在であることから抜け出せないのではないのか?」といった疑問が生まれていた時期なのではないかね。
騙し、罠にはめ、打ちのめし、踏みつけ、のし上がっていく過程において、気づいてしまったと。
まだ金持ちになってるわけでもないのに。
まだ最初の目標とか全然達成しない段階で次に目移りしていくディオくん。そういうことでとうとう人間様をお辞めになって「他とは隔絶した何か」を目指し始めたのではないか。
こういう目標変更って、当初の目標が叶えられずに逃げ込む精神的優位性として宗教的なパワーを感じるけど、ディオ様とてそうであったというのは面白い。
「時よ止まれい!」
「時を支配するものこそ、この世界の支配者」というところまで行き着いたディオ様。
ここが丁度、『天国に行く方法』という電波発言をノートにせっせと書き記していた最後の時期。この時点ではまだまだ「支配者」にこだわっている。というかそれは自然なことなのかもしれないけど。
わりと俗っぽい。
何かのアダルト関連でのプレイみたいな変な願望に行き着いた感は否めず。「止まってる時の中をこのDIOだけが動けるのだ!」ってそういう感じで聞くとダメだわ。しかし6部と3部では『神』の書きたいテーマも変わっているわけだからDIOのテーマもあやふやなわけだしまあそこはほらね。プッチは「DIOの骨をエジプトで回収した」とか言ってたくせに回想ではしっかり貰ってるわけだからね。おちゃめなプッチ神父38歳。
そこはまあまあ。
「DIO」というよりも「ジョジョ」のテーマとしてみるべきかな。
ということであえて時間軸も時にはぶっ飛ばしてコペルニクス的発想の転換にてこのミステリーに挑んでいかないといかんよまったく。
この世界は「タテ」、「ヨコ」、「奥行き」、の立体3次元。
そして「時間」で4次元。
(ミクロ世界では10次元とも)
DIO様はこの内の1次元である「時間の支配」こそ、「自分が求めること」に対して絶対的なことであるという認識がこの時にあったのか。しきりにワールドワールドいってるし。
カーズの目標『究極生物になる』
ジョジョの奇妙な冒険 第2部 戦闘潮流
他のラスボスたちのテーマを見てみるとカーズが一番近いのではないか。その理由もDIOと似たような「見下し観」からくる感じだし。IQ400科学者としての「マッドな好奇心&研究心」からというところもあるだろうけどね。
『太陽を克服する』
というのはDIOにとっても共通するところである。そしてカーズはそれを克服した。DIOにとっての『天国』がそれだというならカーズがすでにやってることになるかね。やはりDIOにとっての弱点であることは事実なわけだから太陽光は。
これがある限り「昼間は支配できない」わけでしょ。
だから「裏の帝王」でもいいということなのか。いや、だからこそそれをも上回る「DIOの世界」を目指したのか。つまりはそれが『天国』?永遠に時を止められる世界?
しかし裏の時間しか生きられなかったからこそ、表の時間で活動してくれる「駒」の存在が必要だったDIO。
「1人では世界を支配できない」ということに対し、この経験から単純な考えではいられなくなったとしてもそうおかしくはないことだろう。「他が必要」とみるか、「これではダメだ」とみるかはわからないが。
それは次なる「邪悪」に照らしてみてみよう。
吉良吉影の目標『静かに暮らしたい』
ジョジョの奇妙な冒険 第4部 ダイヤモンドは砕けない
ただし殺人鬼として。非常に個人的な目標。しかし「自分のどうしようもない趣味趣向性質を抱えて」となると一般化できそうな部分。
『DIOの世界(オレだけの時間だぜ)』
自分の性分を「受け容れられざるもの」とわかった上で世に潜行して静かに暮らすことを目標とする吉良吉影。DIOの性分も他と相容れないものかもしれないがDIOの場合はそれを「世に押し付ける」という欲望とも野望とも言えるものを持っている風にみえる。「超的証認欲求」。
でも理解されざる部分としての孤独もあり、しかしそれこそ自分の個性であるという絶対の自尊もあり、だからそれは「他に認められる必要のない我が本質」といった心の強さは共通するかもしれないね。
そういった孤高の強さを持つことが「精神の進化」といった部分で。
あるいはさらに段々と「支配者」としての自覚が芽生え、「世に押し付ける」という暴君的考えからの脱却がある程度は芽生えていくのかもしれない。いや芽生えるというよりもともとそれはあるのかもしれない。
なぜならば、
吉良吉影は「他に無関心」という他者の感情をまったく考えないというサイコパス的な性分であるのに対して、DIOの場合はある種の「かまってちゃん」であり、究極的には「全ての存在から認められたい」という価値観が根底には存在しているようにみえるから。
どっちも「超自己中」なわけだけど、吉良吉影は「自分だけが良ければいい」というような考え。むしろDIOは「自分が支配者になることが世界にとって正しい」という考えのように思えるのだ。
吉良吉影も最後はあの奥さんに想いを通わせることがあったかもしれないけれどね。
まあその点において「支配する」という観点であってもまだ他への関心はあり続けるDIOにとって、「そのあり方」に関心が行くのも無理ないことではないか。
ボスの目標『絶頂でありつづけたい』
ジョジョの奇妙な冒険 第5部 黄金の旋風
ギャング団パッショーネの総帥だが、もともとは一介の人夫の青年である。こういった成り上がり者に共通する恐怖は常に「陥落」であるらしい。豊臣秀吉も「もう大名たちに与える土地がない」とかなんだかで朝鮮出兵を何かに取り憑かれたように敢行し続けたし、漢の劉邦も天下取りのあとは功臣たちに対して粛清の嵐。明の朱元璋しかり、中華人民共和国の毛沢東しかり。
『帝王の資質』
ということがDIOにとっても考えさせられる命題だったのではないか。DIOもなんだかんだ普通の出自だし。ディアボロは絶頂であり続けるために不安要素に対して病的に怯え続け、いやそれはむしろ肯定的に「哲学」にまで昇華した彼自身のテーマになって彼を押し上げたパワーではあったけれど、ハタからみれば「猜疑心の塊」にしかならない。
「力での支配」、「恐怖による支配」、には限界があるのではないか?それらのものが「黄金の意志」をもった、すなわちジョナサンの如き者たちに通用するのだろうか?
DIOは『天国』へ行くための方法を研究していた頃に承太郎に殺されたし、そのときにおいてなお「勝利して支配する。それだけが満足感よ。過程や方法なぞどうでも良いのだ。」と言うが、それでもある程度は「それだけでは」という疑問があったのではないか。
いやDIOの場合「疑問」という中途半端なものとしては認識していないだろうけどさ。あくまで「オレの信じること自体は間違ってはいないが、さらに上に行くために必要な考え」という自分自身の性質を理解した上で、自分自身を動かすための考え方をしていた風に感じるけど。まるで自分という「馬」を操るように。
ジョジョボス1「小物感漂う」と称されるボスのようにはなる気はなかったということでしょうかね。ブチャラティもあまりの小物ぶりに愛想を尽かして裏切ったわけだしさ。
でもボスの「地べたを這いずってでも頂点であり続けるという執念」には脱帽するよね。「あ、こんなすごい人もこうやって戦ってきたんだなあ」なんて思わせられた。当時あんだけ右往左往してなんとかかんとか勝とうとして、必死こいて戦うラスボスは新鮮だったよね。まあ3部DIOもそうなんだけどさ。
そんなこんなで考察を進めていくとDIOがなんとも高尚な聖王への道を模索していたのかとなってしまう。
中華思想における、
力の支配は「覇王」。
徳での支配が「聖王」。
プッチ神父『覚悟した世界』
ジョジョの奇妙な冒険 第6部 ストーンオーシャン
ここがとうとうDIOの『天国』に最も近い、というかその『天国』に行き着いたエンリコ・プッチの『天国』である。まあDIOは「精神的なものさ」なんていってるけど結局実体化してるしね。いや精神の具現化がスタンドだからそれはそうなのかなにを今更ね。
『人類の幸福』
個人的所感として、やはりプッチ神父の目指したことは「幸福」である。元々プッチ神父自身敬虔なるクリスチャンであり、世界のことについて思い至す神学徒。さらにものっそい頭のいい神学徒である。こういった輩はどの時代も信頼される存在である。俗な欲を持たず、しかもその理想を冷静にプランニングでき、実行できてしまう。
狂信的であり過ぎず、だからといって私欲もない。行き着く先は「理想」しかない。
もともとは神の法と現実世界の区別が明瞭に、解りすぎるほどに判っているため「そんなもの」だとして信仰心と現実世界との折り合いは付けられていただろうけれども、
「理不尽だが、誰が悪いわけでもない、不幸すぎる出来事」
という事態に、しかも自分が関与する形で、しかも「うまくやったつもり」の行為を引き金として起こった事件に対しての「深い絶望」。
きっと彼は身内が悲惨な被害者になっても法廷で感情的に問い詰めるような心の動きをしない人ではないかと思うね。物分りがよすぎて責任問題として捉えられないからその感情をぶつけることもできないような。ただし悲しみや怒りは当然ある。ただ「なんでこんなことに」ではなく「これも現実」と認識できてしまう物分りのいい頭の良さ。
そんな経験が彼をして「人類が幸福であるために」という理想への狂進が始まっていったということなのだろうと思う。
たとえ選択の結果であろうとも「受け容れがたい現実」があることをその身と心をもって経験した者にとって、この世の幸福とは「全てを覚悟するオートマチックな世界」だったのだろうか。デスティニープランみたいな。個々の選択や意志が素晴らしいことなのは分かっているけれど、そうでなくてもいいんじゃないかと言うような物分り。
としてみると「人類の幸福」というテーマは、ある種DIOみたいな今までの利己主義者的な人種のテーマに比べると理解しにくい(人間は皆そういった性分でもあるし)にもかかわらず、なんとなくその理由は理解できる。
なんか先生はこの頃キリスト教をテーマにするのにハマってたみたいだし。
このことを通覧してみるに、
DIOの言葉を見ればわかり易いほど明らか。
DIOの真目標『真の勝利者とは『天国』を見たもののことだ。』
「幸福とは無敵の肉体や大金を持つことや人の頂点に立つことでは得られないとわかっている。」
DIO
ジョジョの奇妙な冒険 第3部 スターダストクルセイダース
一番の金持ちになる望みも「すでに」無く、
カーズのような究極生物への望みも「すでに」無く、
ディアボロのような絶頂も「すでに」最終目的ではありえないのである。
かといって吉良吉影のように静かに隠遁したいというのもDIOらしくもないじゃない。
それはもう細川元首相がやっとるやない。
そうだったらもう細川元首相が『天国』にイッとるやない。
まあ、
「当たらずも遠からず」ってところだろうけれどさ。
かといってプッチ神父の『覚悟した世界』がDIOの『天国』ではないだろうし。
あくまであれはプッチ神父の「精神の行き着いた先」なのであって、DIOが人類の幸福を覚悟した世界に求めたわけではないだろうし。
真の勝利者とは『天国』を見たもののことだ。
って言うなら結局それは
「究極の自己満足的」
なことにしかなりえないわけである。
そのまま読めば。「見たもののこと」を主観と捉えればね。そして『天国』には「自分が行く」のだから。だって「勝利者」とは彼であるはずだから。
DIOがあの道を踏んで「メイドインヘブン」を発現させていたらどんな能力になっていたのか?
では「DIOがあの道を踏んで「メイドインヘブン」を発現させていたらどんな能力になっていたのか?」となればどうなのか。
世界の時を永遠に自在に止めていられる能力?
簡単に言えばそれが真の支配にはなるけど、精神的進化ってなるかな今までの考察でみるにつけてさ。それじゃあ承太郎の野郎が時止めだしたから時を止めたり飛ばしたり戻したりさせるだけじゃあダメだ。そもそも条件付きなのがダメだ。完全無欠であらねば。というカーズみたいなことに戻ってくわけだからね。
「精神的にこのDIOには勝てないと思わせる。」
というDIOの「本質に対する欲求」という意志だけは、最初から最後まで一貫した彼の哲学だったんじゃないかと思うんだけどね。
ということで、
ここらへんまでが『彼の世界』に近づけるギリギリの距離かと。
この私による場合。
結局のところ『DIOが目指した精神的勝利』はわからないっちゅーわけですわな。
というか分かったらその時点でそれは陳腐化するわけで。
想像力こそが神なのだからねまったく。
天国に到達したDIO
ということで天国に到達したらしいDIO様も存在しているみたいですよね。
結局こういうことだったみたいですよ。
これが『天国』にイッた姿だということでね。
ふーん
・「ジョジョの奇妙な冒険」荒木飛呂彦/集英社
・「『天国』へ行く方法の研究」あらき100% さま
・「プッチの14の言葉についてくそまじめに考察してみた」ぽむ@ヘタレ さま
・「『天国へ行く方法』の手牌構成を考える」天国へ行くための136の方法 さま