2016年無職ニートのアカデミー3年目
「存在は行動なり。」
ここでムラクモ・アカデミー学校長理事、
及び唯一の無職ニート在校生である3年生代表「真打むらくも」より新年のご挨拶と洒落こみましょう。
いやーブログ移転したり、ゲームの改修版をあげてみたり意外にわちゃわちゃしていた年末年始でしたな。
さあそんなどうでもいいおっちゃんじみた所感は置いといて。
今年はとにかく
「削って」
「自分のセンスで」
「行動成果のみ」
をやっていこうというテーマ。
色々経験はできたし得手不得手もより正確に把握し始めたし、
そろそろアレかと。
重りを外す時かと。
うん。200キロぐらい背負って戦っていたというね。うん。
「な……お前今までそんなものをつけて……」
みたいなね。
そういう戦いをしていたというところもある今までの戦い。
というのも人が良いということを意図的に実行していたりしていたのだ。アフィリエイターとかそういうのさ。でも人の言うことを理解するのが苦手な私にはやっぱりよくわからないところもあった。しっくりこないというかこう「自分の持ち物じゃないもの」のようなさ。うん。
ダビデ王が巨人ゴリアテと戦うときにもただの石投げ機スリングショットで戦ったように自分の持ち物でないものはしっくりこないということ。
しかしそのおかげでいろんな視点が見えて視野も広がったし、
まあいいのだけれど。
「なんでそんなわけのわからない事やってんの!?」
という記事を頻出させていたのが確認された我が記事たち。最初のほうね。ブログ移転時に見ているとみていて頭が痛くなることばーかり書いとるから。特にゲームオブメモリーズとかイミフすぎない。
「ゲームのサイト」→「他にはないもの」→「イミフ」ということになった最初の頃。うん。
難易度ストロングベリーハードに挑戦していた頃。
レベル1のやつが。
だからもう自分のセンスだけに依ったことだけで活動していきたいと考えるよ。
「そろそろいいだろ?」
みたいな。
ナニソレみたいな。
早く働いてくださいみたいな。
中2病みたいな発言が頻出しているところやけどもね。
結局は「なんかシンプルに良いと思うことをやりたい」ってこと。
ひろがる選択肢。
そして「削って」というのはやはりいろんなことをやってきて得手不得手が分かってきているのだから苦手意識のあることはやらずに、
得意だと思うことに集中するべき時だということ。
苦手とは言わずとも、単純に才能ないなあという分野もあり、それはそれで自分でやってる分には割りと面白かったりはするのだけど、しかしあまりレベルが上がらないから同じこと繰り返すだけの遊びになってしまって、
そしてそうなると私はそういう同じことを繰り返すというのが大嫌いなのですぐ飽きる。
じゃあとりあえずそれはやめときましょうということで。
自分の力になることだけに栄養を流してみてはどうだろうかということで。まあそれは集中の原則としてあたり前なのだけれどさ。でもそれ以上にやってみたいこともあったのでね。うん。
もう選べるんだ。
普通の人からみたら信じられない話かもしれないけどね。うん。選択肢がひろがっているのだ。今はもう。色々なことが視野に入り色々なことが出来るというところにいるという我が認識。信じられないことでしょう普通の人には。
無職のひきこもりニートにまさか選択肢があるだなんて。
でもあるんです。
こんなもん意識次第の勘違い次第。うん。勘違いしたもん勝ちの世界に生きているわけだから。でもいろいろ刺激を受けていろいろ経験していると見えてくるものがあるというわけ。
しかしそれが逆に人を惑わせるということにもなる贅沢な話。
だから今年はできるだけ削って、絞って、やってみようというテーマで。まあ一応。あれよあれよとふらふらとやってしまうかもしれないけれど。
男だったら背中で語れや。
そして「行動成果のみ」というのが最大のテーマ因子。
つまりさ、まあそもそもの話になるんだけど、
私は「口をだすのが嫌い」という性分があるのだ。
うん。前に何処かでも書いたけれど、「男だったら背中で語れや」という価値観が主体の人間。だからネットが嫌いだったのだね。カキコミ主流のさ。口だけ野郎たちの。
※「我が主張論」ではゼノブレイドを批判しているが、これはかのゲームが最大級の評価をもっているので辱めにはならないだろうことと、批判というより、「自分はこれとは違った面白さのゲームを目指している」という主張であるという自分への言い訳をしてやっと書かれたものだしね。もともと企画書と同封されて送ったわけだから。うん。だってゼノブレイドが史上最高のRPGだったら困るのだよ。「同じのつくるの?(笑)」ってなるから。
しかし歴史の中でも言論というものを勉強していくと、
しっかり意思表明や思考を言語化して「伝える」という行為の価値を大きく見直すことにもなって、
意識は大きく変わった。
20代前半くらいの時だね。吃音者であるのでむしろ言語というテーマは色々これから調べていくかもしれないくらいになっているほどに。
しかし、
そうはいっても基本は「行動至上主義者」的な価値観がある人間だった。
「だから何もできないしない自分は何もしちゃいけないし何も言う権利も資格もない」
というくらいになっていた。しかし上記のようにその意識が変わっていって、
「それだけじゃないな」
と思うに至る。
が、
それでもやはり基本は「行動こそが美しい」のだ。
にも関わらずこうしてブログでなにか「言っている」というのにはそもそも違和感を感じていたんだ。特に何かについて評するようなものであったり何だったりは基本的に肌に合わない。それははじめからわかっていたのだけど「何事も経験」ということで
まだ20代なのだから失敗しても痛くも痒くもない
という具合で色々チャレンジしていた一つとしていい経験ではあった。勿論やる前からわかっていた様にやはり苦手であったけれども、
実態としての経験ができた。
つまりいいところもあったということ。
それはこうして伝えようとする表現に関してのことだ。
評論とか指摘とかそういうことではない、
『人間が何かを伝えようとする交信手段として発展した言語による表現。』
その価値をまざまざと実感したんだよね。うん。
極論を言えば「英語圏の人に日本語で話しても何も通じない」わけ。
感情や表情やジェスチャーで伝えたり、あるいは状況に鑑みて相手がうまく解釈してくれたりはするけれど。
でも基本は伝えるということは工夫しなくちゃいけないということを頭ではなくて
精神的疲労肉体的疲労によって経験できた。
まあつまりこの2年間のアカデミー経験でってことね。うん。
だから多分ブログは続ける。
今までの話だとブログを続ける理由はまったくないのだ。
「人とも特別関わりたくない」
「アクセス集めてマネタイズも目指さない」
「そもそも言うってことが嫌い」
であるのにもかかわらず。
しかしそれを飛び越えての
「自分のサイトを創っていくってギガオモシロス。」
というシンプルな理由のみ。
あとさっき言った「表現する」という視点を試行錯誤して学ぶ場所という価値。
だから続けるとは思うけれど、「削って」いく以上あまり「思いつき」なことはもうやらないかなうん。そういうテーマだし。ほとんど時間もかからないリサーチも必要のない日記的なものは書き記すこともあるだろうけど。【準悲報】親父が五郎丸になった日はそれはそれは客が死ぬほど来ない日でした。とか。
というか結局は「自分の人生の目標は?」となれば金を稼ぐことではないことは明白なのだ。
それは手段。
とか頭の良さそうなことをいいつつそういう手続きを踏まずにニートとして裏ワザ使って生きているのだけど。ごめりんこ。
しかし「やりたいことしかやれない」以上これは致し方がない。
とにかく自分は自分のやりたいことをやる。それを「完成」させるというのが今のところの目標となるね。それが人にとっての価値にでもなればそれは幸いなこと。という程度で、
やはり基本は自分がやりたいことを完成させることを目指していくのがこの人生の最終的な目標になるかとは思う。
今のところはね。
人を完全無視することはないけれど、必要以上にかしずいたり或いはその為だけにということはしない。
うん。ワロス。
自分がやってる延長線上に共感してくれる人でもいたらそれはそれで幸いということで。
要らないんだよね。
どうでもいい関係は。
ほんと。
それが嫌で引きこもってるんだし、子供の頃でうんざりだ。
人に囲まれるのもそれに合わせるのもその勝手な評価に隠れて何もしなくなってしまうのも。
いやもちろん良いこともあった。もうわりと経験してきたことだった。それを最近思い出した。これがよくここで書いたり言ったりしている
「ハッサン理論」だね。
うん。
「夢の世界の自分と現実の世界の自分が融合した」
みたいなそういうアレねうん。ドラクエ6のねうん。
「思い出した」ってなことでここは一つよろしくおねがいします。
言うことに飽きた。
そしてとにかく色々「言ってきた」2015年であったと。こんなに自分が言うだけの人間になるとは思いもしなかった若き日。いい経験にはなったけど。ねえ?
なんかものっそい説得力ないでしょう?
「無職ひきこもり二ートの生き方」的なことを書いたところで、ゲームの事を書いたところで、何の実績もない人間の戯れ言なわけだから。いや元々わかっていたことだしというかそれを前提で書いていたのだけど
予想を大きく上回る説得力のなさに脱帽。
想定された以上の威力を発揮してしまって戦火はひろがるばかり。オレの心の戦火は広がるばかり。
去年最後の記事となったスクエニゲーのお記事はこれ以上ないってくらい恥知らずなさ、「人のことを言うだけ」のものになった。
とりあえずアレでああいうのはやめておきたい。色々勉強にはなったけれど、気持ちのいいもんじゃあない。言ったことに対してではなくて、
言うだけの立場にいることがってこと。
とかまたここで「言ってる」けど。
これこそがこのブログの真骨頂となるテーマで、「やれたらやるでどこまでイケるか」という挑戦記なわけだ。勿論長くなっていくことは必定で3歩進んで4歩下がるくらいのお話となるだろうね。だから長征一万光年ロンゲストマーチなのだ。「え、じゃあ一歩づつ下がるじゃん」となるけどもそこはうまいことジャンプパネルを踏むかもしれない作戦でたまに飛んじゃおうかなという目論見でねうん。違うか。もう例え方が分からんわ。
だからあえて言うこともあるし、
今までの記録はすごい大事なのだ。
だって成功したり何か実績を出した人間のはなしなんてすべて説得力あるじゃん。
事実正しいことを言っているのかもしれないけど、
しかし、
「なに言っても格好がつく」とも言えるわけだよ。
いや格好はつくんだけど確かに。
でもなに言ったって格好はつくけど、実際その考え方で人に伝わるのかは怪しいところだ。「名選手は名監督にならず」のように、
なにもその人の哲学や方法だけでうまくいったわけではないだろうことなのだから。
人や家族や支援者の並々ならない支えや助力を一身に受けた結果偶然的に登ってしまったということも大いに有り得ることだ。
特に若いうちは。
勿論頑張りもあるんだろうけどさ。でも頑張ってる人間なんてホントにいっぱいいるわけだし。ただ頑張ったらいいなんて話では……とかいうこともあまり好きではないけど。
なんにせよ「その前の段階」ってもおもしろいと思ったのでここに残しておこうということ。だからわざわざブログ移転の際にも移動させてパーマリンクも変えて内部リンクも変えての腱鞘炎推進キャンペーンをしたわけだから。
つまり「実績もないのに大口をたたいておく」というプレイ。
そんなのも面白いかなという具合で。
「成長する」ということが人生の醍醐味であると思うんだよね。
うん。成長キャラが好きなんだよオレは。三国志なら呂蒙ね。うん。
才能ではなくて成長するという人生をテーマにやっていきたいのだ。
いろいろとすべてがダメだったらそれは「そういう事例」として誰かの参考にでもなればいいかなあというくらいで。でも失敗するにしても世の役にたつ失敗の仕方というものがあるわけだからほんとこまった話だよね。失敗一つとっても一流は必ずそこに何かを残す。
私は失敗をしたのではない。これではうまくいかないという発見をしたのだ。
byトーマス・エジソン
無様にも顔から転げ落ちるたび、僕はまた笑って立ち上がる。
byフランク・シナトラ
彼らはたとえ失敗しても素晴らしい成果を生む。
勝利も敗北もしらない冷たく臆病な人間には到底到達できない場所なのだ。
byセオドア・ルーズベルト
刺激は続ける。
去年映画の感想キャンペーンした折に「あまり刺激にならないなあ」と書いたが、
なったわ。
うん。結局ああいうことって多少落ち着いてこないと定着しないというかさ、最初の刺激はそんなにないかもしれないけど後々染み入ってきて「何か」になって残るんだよね。
やっぱり。
そういう視点で考えるキッカケにもなってるわけだし、それについて考えたことは残っていくし。「こんな世界もあるんだなあ」とか「こういうことってどういうことなんだろう?」とか思うし。
抽象的な表現だけども。
でも映画が短いというのは事実ではある。
しかしやはり何かをしたり、
何かを見たり、
聴いたり、
読んだり、
考えたり、
実行したり、
うまくいったり失敗したりの経験こそが成長へのすべてなわけだと思うんだ。
世界が広がるし、
考えが広がるし、
次元が変わるというか、
つまり成長する。
ような気分になってるだけかもしれないけど。
そういうことよくいうよね。
ネット民は。
言うだけなんだけど。
(*´艸`*)
考えの中だけの理屈をあの手この手で言うだけ言うという。
そういうものかと見ていれば愉快なことだから苦しゅうないのだけどさ。
でも結局やってみなければわからなかったことなんてザラにある。
そもそも「生きてもしょうがない」と考えてみたところで、
実際に生きてみるとわりといろんな目標が生まれるものだった。
”人間として正しくない姿”のニートとして生きてみたとしてもね。
だから何?って。
お前らの目なんかどうでもいいわって。
これは経験。
考えのなかでただ言うという話ではない。
それがたとえどんなにちっぽけな話であろうと、自分で語る分には微塵も恥ずかしさのないことなんだ。だって自分の経験なのだから。嘘も偽りもなにもない。役に立つかどうかは別として。
やっぱり自分はそれが気持ちいいんだ。
だから今年は行動を主体としていきたいね。
自分という名の鉱山を発掘していくみたいなそういうアレでおねがいしますね。
20代の終わり
といってゲームを作るかは決めていなーーい。
他にもやりたいことがあったからであり、「まあ30過ぎでもよくないか。」というのんきな話によって。超引きこもるからねそうなったら。しかしまだ色々と外で遊んでみたいというものもある。
それを30過ぎてやるよりは20代のうちにやっておいたほうがよくない?
という話。いや30過ぎてはしゃいでいてもいいんだけど、
今のこの20代の時に選択肢があるのならば、どっちかといえば早いほうがよくない?
という話ね。
30差別じゃないから。
30過ぎの人がそう思い立ったらやればいいんだろうけどさ。うん。私は今そう思ったわけだからさ。うん。お願いします。
最初に企画した「夢幻戦記」というゲームの企画によってここまでやってきたわけだけど、それは今では比べようもないほどの構想へと様変わりしているのだ。
迷惑なことに。そんな立場に居ないのに。
しかしそれだけ自分の経験や思想によっていいものが構想されるということだからまあ熟成させておくのもいいかということでねうん。超言い訳じみてきたけどいいやないのそれはうん。
今に始まったことじゃなし。
もともとはただのゲーム論を証明するためだけのデザインだから世界観&システム的に新しいとか、シナリオが特別だとか言うのではなかった。
しかし今では名作RPGを追ったり、色々経験したなかでまったく違ったレベルにまで昇華した企画へと様変わりしているのだ。
それはゲームとして楽しいとかそういうレベルではなくて全人類にとって有益にすらなりうるという構想。
うん。これくらいフカしておこう。
「可能性ゼロの挑戦」は壮大なほどいい。
それがプレッシャーになるということはもう無いだろう。
すでに人からみたらだいぶ恥ずかしいだろうほどに実績がないのだから。いまさらいい格好して自分をよく見せる必要もないから出来なきゃ出来ないでいいもんね。
なんにせよとにかく20代の最終クールは20代らしく活動して楽しもうかと考え中。
予定が変わるかもしれないけどね。
前科があるし。
30過ぎたら落ち着いてなにか打ち込もうかってな感じで。後悔はしたくないし、でも明日死んだとしても後悔はしてない生き方してるつもりだけど。
だから1,2年はあまりブログはいじらないかもしれないね。なにか活動したらそれをうまいことやって記事を書くなどはすれども。
考えて、実行する。
このために時間を使いたいかな今年は。