ニートアカデミア(哲学) 不登校ブログ

不登校から歳をとってもなかなか大人にならない件。だからエコロケや。

2017年7月26日

 

活動して経験しないとね。

 

「先輩たちが大勢いる」っていう状況から、

後輩たちを持つようになって「自覚」したりする。

 

自分のいる場所を。

 

 

観測することで「自分のいる場所」をしる。

 

大航海時代でも「自分と太陽や星との位置を測って自分が今いる位置」を認識してきた。

 

 

人は「なにかとの相対的な関係性」によって、

今の「自分の立場」を知っていく。

 

 

あの人より前にいる。

後ろにいる。

右にいる。

左にいる。

斜め前方空中2段にいる。

 

そうして認識していくし、

そうした認識のもとで、

 

そう振る舞う。

 

それは行動も、

キモチも。

 

男だと認識していれば男として振る舞おうとするし、

女として認識していれば女として振る舞おうとする。

 

それが「何なのかがよく判断できない」のが、思春期に強制的に訪れる疑問の結果としてのジェンダーフリーな方たちなのかもしれないだろうし、だからこそ「性同一性障害」という障害として認知させるのかな。

 

それ自体はただジェンダーフリーというだけなのだし。

まあそういった事柄については口を挟める立場でもないので置いておこう。

 

あるいは自分が「若い」と認識すればそう振る舞い、

「年寄り」だと認識すればそう振る舞うような。

 

あくまで理論上は。

 

 

つまり、

不登校やひきこもりのように「何かとの距離が測りづらい場所」にいる場合、

この『観測』ができないことにもなっていく。

距離測定的な。

 

 

だから自分の認識がまだ13歳のままだったりする。

 

つまりは『経験』がないから。

 

勿論実際には、

兄が高校に行ったり大学に行ったり大学院に行ったり教職についたり、妹が結婚したり子供を産んだりすることで「自分のいま居る位置」を認識できることもある。

あるいは、

自分自身がそうやって「この何も進まない何もない世界をどうにかしようとして」無理矢理にでもライフステージを変えていこうと藻掻くことで、認識させていく手法もある。

「やることない体験記」や、

その後の活動ごとにいちいち名前をつけたり性格を与えたりしてして区切りをしているのはそういったためだね。

 

 

『このブログ』はオレにとって『測量機』なワケ。

 

 

そんな観測すらしていなければ、

自分の位置なんてわからないから。

 

どこに

何のために

どう向って

どう進んでいるのかもわからないから

何もしようがないし考えようがないし。

 

つまり「何もしないってそういうこと」なのさ。

 

結論としては、「納得は財産になる」

 

そうして意識がずっと止まっていると、

まさしくネバーランドのピーターパン状態になる。

 

これはなにも「ずっと子供のまま」というより、

「ずっと進まない」という話。

 

つまりいろんなことが怖くなる。

 

歳を取ることも、

起きたことを認めることも、

これから起きるであろう死についてすらそうなる。

 

まあそれは皆ある程度そうなんだけど。

 

ここでは「いきなり歳を取っていた」だなんて時が訪れた「浦島太郎状態」のようになる。

 

時が消し飛ぶ感覚。

 

ライフステージとして1段1段登ってきたとは思えないほど、

「ぶっ飛んで来てしまった」ような感覚を受けてしまう。

 

その1段1段に納得ができてないから。

 

「え、もう!?まだ何もしてないけど!?」

 

 

とか知らないから。

 

 

この世界は。

勝手に進み続けるから。

電車みたいに。

 

だから何かの言いなりや、何かが流れるままに「ただただ過ごしてきてしまう」と、

そんな「精神的遅れ」を取ったりするね。

 

それは「夢や何かを追い求めたけれど、けっきょく上手くいかずに落ち武者してしまった」場合にも起こりうるだろう。

 

やっぱり「もとめた結果」が出なかったから。

 

しかし「何もしなかった」ときの後悔の念よりはずっと恵まれていると思う。

あくまでそう考える限りにおいては。

そう考えられなければただ単にワガママいうけどさ。

 

「好きなことをやれた時間」を持てただけでもすごいっていうのに。

 

これも世界と相対的に自分の位置を測れるからこそ生まれる感情で。

「世の中にはヤバイ状況がもっとあるもんな~」だなんて。

 

話を戻して、

 

反響定位(エコロケーション)しようぜ!!

 

いわゆる「何かして後悔することは何もしなかった後悔よりマシ」と言われるのはそのためなんだと思う。

 

その手段や行動に自分が納得してやっているから、

すでにその時点で1つの結果を得ているわけだから。

 

二毛作みたいなことで。

 

さらにはそうすることで自分自身が「自分自身のライフステージ上でやるべきこと」みたいなことを「やってきた」のだと認識できるのだ。

 

するとどうだろう、

自分の位置を知ることが出来る。

 

何かをして、

 

いわばイルカの超音波みたいに『発信』し、

『それが何かに当たって跳ね返ってくることで位置を測定する』かのごとく。

 

すなわち、

 

“エコロケーション”

※反響定位(はんきょうていい)

 

そして『納得』する。

 

 

「やるだけやった結果に30無職ニートになった」のだと。

 

この納得は財産になる。

 

 

「なにもしなかったから30無職ニートになった」のだとすれば、

これほど納得し難いこともなく、

相当受け入れがたいだろう。

 

20のときですらそうだったんだから。

 

 

というか「自分しかいない世界」なんだし。

 

「自分の人生を生きよう」ってことや。

 

内では「僕だけしかいない街」レベルで。

外では「僕だけがいない街」のレベルで。

 

無職ひきこもりニートの世界はそんなもんで、

だからこそ「自分の自身の意識次第」で様変わりするから。

 

というかこの世界には「自分の人生しかない」から。

 

それを見つけてそれを生きるしかない。

それはある程度過ごせば直ぐ気づくね。

 

ここで言いたかったのは次の2点。

 

「すべてよく活動することは、その人生をもっともよく生きることである。」

 

的なデカルト風名言。

 

そして、

そうして自分なりにでも自分なりに考える人生の階段とも言うべきライフステージを一段一段「認識していく」ことで、

 

歳を取ることも、

死に向かうことも、

受け容れ易くなっていくのではなかろうかということ。

 

つまりそれらが漠然と生み出す不安感などからこれを和らげていくのでなかろうかってな具合で。

ゲームブログが忙しくて乱雑な記述にもうしわけ。

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フライングなニートマンの著作書籍

 

★ニートの自伝

 

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「不登校×少年労働」編

愚か者の人生戦記第1弾は「生まれてから13歳で少年労働兵と成ってご活躍される」までのお話。既に中年サラリーマンの如き「労働と報酬の日々」を過ごしたひとの末路へつづく。

 

やることない体験記

「ニート×無目標」編

愚か者の人生戦記第2弾は「ニート化成った18歳から21歳までのやることがなかった」ころのお話。「仕事がなくなると人は一体何をするのだろうか?」という実験データに近いモノあり。

その後もニートだし今も半ニートなんだけどね

 

★「もしも働いていたなら?」ロールプレイングストーリー

 

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「もしも、ふつうに働いていたら?」

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