「価値と価値とを交換するのが“お金”」
であり、
「“お金”は価値と交換できる」
というのならば、
みんなは「何」と「お金」を「交換」しているのか?
「労働者」は「何」とお金を交換しているのか?
まず「時間」と交換している。
「その人の時間」には「限り」がある。1日は24時間で、仮に1日8時間寝るとしたら月480時間の時間という「有限なコスト」になる。「限りがある以上」は、人はそれを「それ相応のものとしか交換はしない(等価交換)」ものとされる。普通。
そして「労力」と交換している。
時間も似たようなものかもしれないけれど、「それが『同じ仕事(取引相手に提供する価値)』だとしても、それを『1時間でこなす人』と『10時間かける人』がいる」場合も考えられるからだね。実際は時給制がほとんどだから時間と労力はセットな現状だろうけど、概念としては分けられる。
この2つは「どんなモノにも」だいたい当てはまる。
「スキル」と交換してようが「知識」と交換してようが「お米」と交換してようが、大体の場合、「それらの成果を持つのに」人は「時間」と「労力」を使っているから。スキルの習得にも知識の勉強にもお米の生産にも使っているやないの。
ただしそれらは『固有の価値』で『高価い価値』ではあるけれど。
『価値の話』をした際に「『固有の価値』はもっとも稼ぎやすい価値のひとつ」みたいなことになったけど、
「スキルや何やら」というものはまさにそういうことで「他と被らない」からこそ、
「安定的」もしくは「効率的」もしくはまた「高価値」になりやすい。
「時間」と「労力」はみんな持ってるから安くなるか一律。
厳密には「労力」はまたそれぞれで、いわゆる「特殊なスキルが要らない」みたいな場合に過ぎず、「人間として五体満足に動けて話せればOK」みたいなことになる。
「ウデを使うのにウデがない人はウデを使う仕事では「労力」として価値を有さない事になっていく。」
だから実際には「時間」が「みんなの持っているモノ」になる。
それが「人間そのものの価値」と言わんばかりにね。しかししかし、「余命数年」みたいな人もいるし、というか「人間いつ死ぬかわからない」なんていう話もできるから完全な意味では言えないけれど。
だいたいは『時間』と交換してもらっている。
みんなは『時間』で『お金』を買っている。
ということなんだよね改めて考えると。そして「元をたどる」と。当たり前なことだけど改めて整理するとなんだか面白い。
※もちろん実際は「経験」だったり「人脈」だったりいろんなものがついてくる事があるし、意識や運しだいでその価値は高められもするし低まりもする
だから「1日24時間」という「財産」から「支払っている」ことになる。
「時給が1000円」なら当然「1時間1000円の財産」になる。「1日で24000円の財産」だ。
実際にはその時間をお金と交換している時間は「日本だと8時間が平均」というので8千円くらいになるのだけど、理論上は1日2万4千円というコスト。ここで大事なことは数字の多寡じゃなくて、
「全てがコストとして計上できる」ということなんだ。
でも「1時間が5000円の人」もいるだろうし「10万円」の人もいる。
それは「お金としての価値が高い」から。やはり当たり前な話だけど。
時間は平等なのに「価値に違いが生じる」のはそれが「人にとっての価値(提供価値/サービス)」として「高いか低いか」ということによる。
「人としての価値」ではなくて「人にとっての価値」だ。
「その存在それ自体の価値」は何にでも「决められることでもない」し、というか「决められない」だろう。「物差し」があってはじめて「評価される」し「評価が出来る」から。
なんでも「物差し(観点)」が評価する。
「1時間1000円」の人と「1時間1万円の人」とでは、「1万円に対する価値」が違ってくる。
「価値」は「そこに在る」もの。「お金の価値」は「人が決める」もの。
コレはどっちが価値ある存在かということではなくて、「お金の価値」は「その人がそう認めただけの価値になる」という考えに必要なだけ。
「1時間1000円の人」にとっての1万円は「10時間」に相当し、「1時間1万円の人」にとっての1万円は「1時間」に相当する価値になる。
つまり「お金の値段に価値があるというより」、「その人の時間にもとづいて決まってくる」のが「お金の価値」ということ。
つまりお金の価値は「人基準」できまる。
「人にとっての価値」が「お金」になる。
これは今まで何度も前提した定義だが、
自分が欲しいモノは「自分にとっての価値になるもの」であり、
それを「交換」する場合、
「その相手はすべて人になる」ということ。
鹿を狩って食べる場合、鹿と交換はしない。強要するだけ。
強盗や何かと同じではあるが、交換には相当しないかな。でも「思想的な何かで色々と理由をつけることは出来るだろうから」あまり突っ込まないけれど。それもまた必要な宗教的な工夫だろうて。強盗も言い方によれば「自分の“リスク”と相手の持つ“価値”を交換した」ということが市場的には言えるものだろうけど。なるほど「等価交換」ではある。
その肉を「人と交換する」ならそれは「人にとっての価値」になりうる交換物。
それが「人の成果物」であり、それが「お金」になる。
厳密には「お金の原石」みたいなものだけど。「金(きん)」みたいな。
「交換して自分の手に入ってはじめてその価値を手にする」のだから、支払ってもらわなければお金にならないし。
やはり「その人に価値を認めさせる」必要がある。
お金の原石である『価値(金/ゴールドバリュー)』はそれ自体でお金にはならない。それは「『金』以外の何物でもない」から。
ある人からすれば「ものすごいきれい」となり、またある人からすれば「不純物の一切ない完璧な存在」となり、さらにある人からすれば「錆びにくくて便利だ」となってはじめて「人にとっての価値」になっていく。
鹿の肉を狩る技術も狩場もない人からしたら、「自分では手にできないのだし、交換するのが利口というものだ」とばかりに交換条件が整っていくんやな。
「価値」とは「相対的に」決まるもの。
人がそう決めただけの「価値」になる。あるいはその総評が「相場」になる。(市場原理)
だから『お金』というものは『人に価値を提供しなければ得られない』システム。
「お金」は「人が持っている」のだから。
その人の「時間」それ自体はまるで「金」それ自体のように、
私にとって何の価値もないけれど、
その「お金の原石(価値/ゴールドバリュー)」は「お金になりうる」。その人がその原石を「私の欲しい価値あるもの」に変えてきたならば「私にとっても価値あるもの」になる。
つまりは「お金とか」に。
あ、でも「iPhone7でもいい」けど。「オプーナ10本」は要らないけど。
じゃあやっぱり「お金で」頼むわ。
「原石」はどこにでもある。
『価値(ゴールドバリュー)』それ自体は「人に限らず」存在している。
「その人にとっての時間」はその人にとっては「ものすごい貴重」という『価値』を持っている。それは「その人の家族の写真」でも「その人の思い出の品」でも、その観点から物差しで測れば『価値』を有する。というより「そういった特性を持っている」でもいい。「これを見ると思い出すんだ」という特性。あるいは性質。あるいはまた個性。「最愛の人」も科学的な目で見れば「水分がいくらいくらの肉の塊」とか。
ただそれが「私のために使われなければ、私にとっての価値にはならない。」というだけで。
そして「だから私の持っている『限りある価値』と交換することはできない。」ってなる。
すなわち「お金にならない」と。
「あるアイドルの家族との思い出の写真」なら「ファンにとっては価値を有する」だろう。
『紙幣』もどこにでもある。
これは「紙切れ」だからゴミ箱にも落ちている。
「あくまで『お金』としてみた場合」はそんな存在。紙幣のデザインは高級感もあるし、その紙質などからいうと実用性のある職人技を感じさせ、一種のアート感があるけどね。英国はポンドにプライド持ってるしね。
それに「紙幣」は「信用」の象徴でもある。
「銀行による証明書」みたいなものが紙幣の元々の役割で、「その券持ってあの銀行にいけば金と交換してくれる」ということならば「そのままこの証明権利書でやり取りすればいいじゃない」ということから「いつしか紙幣になった」わけだから。信頼なくして紙幣もありえないというカッコ良さはあるけれど。
されど「アホでも持ってる」のが紙幣。
つまり言いたいのは「紙幣自体にはお金の原石としての価値はない」ということ。
「価値を生み出せないアホ」でも紙幣は持てる。
※またまた厳密に言えば「価値」は「相対的に必ずどこかに発生するもの」だから生み出せないということもないだろうけどね。「紙」として使えるし、「デザインがその国の風土を現していて美しいから所有欲を満たす」だとか、また単純に「持ち運びしやすいお金」として。
『お金』は『人だけが持っている』スペシャルプライス!
だからオレはお金が好きなほう。
『自分のつくった価値』をいろんなものに変えてくれるから。
そして『人がつくった価値』を「手にしやすくなる」から。
だからこそなんだけど、
これがこの記事としても、
このニートブログとしても言いたいことであり、
と言うか「テーマのひとつ」なんだけれど、
「稼ぐモノは『紙幣』じゃなくて『お金』であり『価値そのもの』にしとけ。」
ってこと。
生み出すべきは『お金の原石』である『価値』そのもの。
まずはこれ。すなわち『固有の価値』の原石。
それに成るのはやっぱり『原石/価値』だから。
紙幣やお金はベンリだけど「自分から生み出せない」から。
というか供給地というか原産地というか資源がなくなっていく。
「みんな一律」の「時間」でしか払えず、それが市場に溢れ出して「価値が下落」し、あるいは「買い手がつかない」なんてことにもなっていくから。
時間にお金としての価値があるのではなく、誰かにとっての価値にできたとき、それはお金になるのだからね。ただ時間を持っているだけではお金にはならない。自分にとって大事でも。
偽札とか作れる人もいるけど。それが悪いわけじゃないし偽札は「悪い」けど。悪いけど「価値がある以上」生まれて交換されていくということだね。
「紙幣」を稼ごうとしちゃダメ。
いわゆる「小手先の金儲け」というやつがコレ。それは「価値あるもの」というより「ただの紙切れ」だ。一時的にそういうシステム上、価値を有しているに過ぎないし、(まあ大体はそうだけどなんでも相対的なものだしそういう意味では優秀でもある)
まあ「それ自体はそういうスキルだから良い」と思うんだけど、
このブログの「生活費を稼ぐ」カテゴリにおいては「おすすめしない」という話なのだ。
なぜならば、
消える時は一瞬だぜ。
「自分の中から生み出せる価値」は自分の中からいくらでも出せる。
リストラされても、グーグルにBANされても、「その経験やスキルやノウハウやコネ」は活かせるんだから。
それが『固有の価値』をまた作り上げる『原石』になる。(理想論)
その見つけ方や作りかたは前回やったとおりやで。
これらの理屈は理想論だけど、
「キホンの考え方」として意識していきたいと「ここでは考えてる」ってことやで。
道に落ちてる紙幣があれば迷わず拾って構わんでしょ。
交番いくかどうかはその人しだいやけれど。それもまた「自分にとってどっちが価値あることか」ということで決まるのだ。
それを『人にとっての価値』にするだけ!
『人の役に立つ』=『提供価値』=『サービス』に。
その視点はすごい大事。
逆に言えば、
「お金にならない」からといって「価値がない」ということではない。
とも理解できるだろう。
「お金に成るか成らないか」は「人にとって役に立つかどうか」であり、それが「無価値かどうか」「意味があるかどうか」ではないこと。
そしてまた、
「大金」か「少額」かは、その価値が、「多くの人の価値になった場合に大金になり」、「少なかった場合には少額になる」ということ。
「2月22日のバースデーケーキ」も「2月22日に誕生日を迎える人」には売れるが、それ以外のひとにはまったく売れないこと。
めちゃくちゃ美味くても。
「ただのうまいケーキ」なら「うまいケーキが食べたい人たち全員」に売れる。
めちゃくちゃ美味くなくても。
実際はめちゃくちゃうまいケーキならめちゃくちゃうまいケーキが食べたい人に売れるけど。
つまり、
『大金に成るかどうかは、多くの人にとっての価値に成らなければならない。』
というだけだと。
大きな市場でうまくやれば大金が稼げるし、それが小さい市場ならばどれだけ素晴らしくても大金は稼げない。
結論「価値あることを目指す。そして金額でナヨらない。」
結果としての金額の多寡でナヨナヨしないほうがいい。
「自分が生みだしたいこと」が「遂に小さい市場であるならば」
それはしょうが無いことだし。
つまり「自分が好きなこと」が「それ」ならば。
「好きなことで成長し、あわよくばお金も稼ぐ」というのがこのニートブログの成長理論であるし。
参考「お金は提供価値だから「好きなことをする」のが一番稼ぎやすい人類最強の成長理論。」
「工夫次第で大きい市場に出来る(コラボだとか、多くの人にわかりやすくするなどで)」だろうけど、なんでも一番最初の方は「結果としてのお金ばかり追い求めてもすぐにはそんな結果が出ない」ことが普通だし。
だから「キツイ」し「辞めていく」わけ。だって「その価値とはお金でしか無く」、「お金が稼げないならやめる」ことになるのだから。
それはスジの通った話だし、大体は「それで人生が回る効率的な手法」なのだろうけど、
しかしそうしていると「紙幣」は手にできても「自分の強み」も「自分の趣味」も手にできなくなると思われる。
つまり『固有の価値』を生みだしづらくなるというわけだ。
最も確実で強力な稼ぎ方だっていうのに。
だが「それが好きなら」「それ自体に価値がある」のだから続けられるし、すなわち「成長」する。そしてそれが「人に認められるような固有の価値になりやすくなる」というわけだ。
とにかく「お金」や「紙幣」に振り回されるより、
「昨日までこの世になかったものを」みたいな価値観が持てると活動力が増大するから。
『それ自体』が『自分にとっては価値になるモノ』だから。