ドゥラメンテ号とアドマイヤグルーヴ号の追いかけ記録(競馬)

【ドゥラメンテ引退】日本一ドラマのある血は日本一ドラマのない馬だった。さらばドゥラメンテ。サラバ競馬。こんなに好きな馬はもう現れないだろう。

2016年6月30日

我が青春のアドマイヤグルーヴが遺児、我が思い出の継承馬ドゥラメンテ。この廃れたアラサー時代に応援しよう。あの頃のように。
我が青春のアドマイヤグルーヴが遺児、我が思い出の継承馬ドゥラメンテ。この廃れたアラサー時代に応援しよう。あの頃のように。
ドゥラメンテ戦績【2015皐月賞】【2015東京優駿(日本ダービー)】
・「ドゥラメンテ」netkeiba.com
・「ドゥラメンテ」wiki

むしろドゥラメンテの話しかしない語るに語る12分。

 

 

そして

 

 

ドゥラメンテ、競走能力喪失で引退。おれは楽しかったよ。

ドゥラメンテ引退 怪物

2016年06月29日
ドゥラメンテは引退、種牡馬入りとなりました

ドゥラメンテは本日6月29日(水)に競走馬登録を抹消し、引退、種牡馬入りとなりました。ご声援ありがとうございました。

サンデーサラブレットクラブHP

 

ということでほとんど予想通り引退と相成った模様。

 

このブログで追い掛け回していた短いファンタイムが終焉となりました。

 

良い日々でありました。

 

また、

まさかあのアドマイヤグルーヴからこれほどの名馬が出てくるとは当時は思えないことでありました。

たった5頭の子どもたちの中からダービー馬を出すという快挙を成し遂げたお嬢。

そしてドゥラメンテを観に行ったダービーへの自転車旅もかけがえがない経験。

本来ならもう関わることもなかった競馬に再び触れられることができて、久しぶりに楽しめたのはこの馬のおかげ以外の何物でもなかったのです。

「まだまだ楽しいことは起きるんだな」

ということをこの歳でも実感できたというのは財産となったのです。

 

あの頃はもう競馬には興味が出なくなった。

 

アドマイヤグルーヴが引退する頃はある意味思春期のまっただ中で、いろいろの価値観が交錯して、未来と過去をぐっちゃぐちゃにかき回していま自分がどこにいるのかすらわからないという頃。

意味もわからず仕事をする中で、「いったい何のために生きているのか?」、「こうやって嫌なことばかり続けて、返ってくるものはあるのか?」、「欲しいものはあるのか?」

なにもなかった。

何にも価値なんか感じられなかった。

あの頃は特にそうだった。

それは仕事を辞めて、すったもんだ精神的にあった末に、「何かする為に行動する」という時期にて活力を得てからも、

もはや競馬には無関心だった。

誰がどれだけ勝とうが知ったこっちゃなかった。

オルフェーブルだろうがジェンティルドンナだろうが好きに勝ってくれと。

オレの知ったこっちゃないから。

馬主でもないし。

そういった「実利」のないものを追いかけるのはもう辞めにしなければならなかった。

それが生きて還ってきた「代償」だった。

「もう想像だけの産物を夢見て果てるのは前世で終わり」

だと。

なぜってそんな偉大なるものと比べてしまうと全てにやる気が無くなってしまうから。

でもそれはすごく魅力的だからそれに死んでいくのはそう悪く無いとはおもった。

結果的には「前世を終えて新しく死ぬまでは生きる」ということで今こうしている。

だからまた競馬で夢を賭けるのなんてまっぴらごめんだったし、

意味もないし、

だから興味もなかった。

そういうのは「前世」でやり終えたことだから。

 

ドゥラメンテは大レースで走ってることそれ自体が「実利」だった。

 

「馬主だったらな~」という賞金や栄光などではなくて、単純に大レースで走っている事自体が実利だった。あのアドマイヤグルーヴの仔供が。

 

それだけでただ単に嬉しかった。

 

楽しみになった。

 

この先のビッグレースをこの馬が戦って勝ってくれるのかどうかということがこの先にあるだけで不思議と活力が湧いてきた。

賞金は入ってこないし、豪華なパーティーに出席するわけでもないのに、ただそんな「素晴らしい」「感動する」出来事がまだこの世にあるんだと感じられるだけでなんだか前向きになれた。

 

ただ単に楽しみになった。

 

「ドゥラメンテ引退。」

 

それでも、

やはり、

 

もう他所からエネルギーをもらうことを許されないようだ。

 

アドマイヤグルーヴという楽しみは、

今日おわった。

 

 

次に行かなくては。

 

 

ドゥラメンテはとうとうドラマのない馬になってしまったね。

ドゥラメンテ引退 さらば

正直、「アドマイヤグルーヴの仔供だから」という域を出ないものとなってしまった。

 

走った時間があまりにも少なすぎた。

 

最近ようやく、

ドゥラメンテ自体を見れてきていたのに。

あれだけ強くて血のドラマがあってもファン投票で振るわないなど面白い個性となりそうな予感がしてきていたドゥラメンテ号の競走馬生。

 

あの渋い色味のメンコと手綱に変な拘束具かぶってビュンビュン走る悪役みたいな。でもイイトコロ育ちのお坊ちゃんだから心は清い的な。怪我で焦って、それでやっと復帰してきてさあこれからとなっても不運が続いて勝ち切れない……

 

現実だからこその先が読めないドラマ性。

 

この一つ一つがどう繋がっていくのかというわからなさ。

 

そこにシナリオライターが書いた筋書きは存在しない。

現実の積み重ねを、人があとからドラマに仕立てる。歴史と同じ。後世の人たちはそれを受け取ってあたかもそれが構成されていたかのように観るのだ。

まったくシナリオが見えてこない「現実」の面白さ。

シナリオやドラマが好きでRPGやマンガや歴史が好きなオレは、まさにここに「現実」の面白さをみているんだ。

 

これだけ糞な現実を生きるのはこの「予想不可能なドラマ性」が面白いと思えてきたからだった。

 

だからこうして生きてるんだ。

 

 

だがドゥラメンテのドラマはもうここで終わってしまう。

ドゥラメンテ 怪物 スピード

先が読めないというのはまだまだ全然完成していないし、

それ自体ではすべてが消化不良の駄作みたいなものだ。

伏線のすべてを未回収で終わった打ち切り漫画みたいに。

 

「最強」のディープインパクトにもなれず、

「復活」のトウカイテイオーにもなれなかった。

 

走った期間が短すぎた。

 

これだけ長い競馬の歴史のあるなかで、多くの馬たちが作ってきたドラマの中で、たったこれだけの期間の走りでは彼だけのドラマを作るのは困難だったんだ。

 

きっとドゥラメンテの話をするとき、

誰とも分かち合えないことだろう。

誰も特には覚えていないから。

「2015年のダービー馬」というくらいにしか。

 

たしかにそれでも「日本競馬史上最強の血筋」というタレントは持った。

母子4代G1制覇 -日本競馬界最強の血脈-

それは他のどの馬にも出来ないことだ。

ダイナカール、エアグルーヴから3代母仔G1制覇を受け継ぐ牝馬はアドマイヤグルーヴしかおらず、さらにその産駒は5頭しか存在しない。そしてG1ホースはドゥラメンテただ1頭。

近代競馬の源流ノーザンダンサー。

社台ファームの吉田一家が輸入を見込んで購入したその直仔ノーザンテースト。

それは日本競馬界のレベルを一気に引き上げた。

ダイナカールはオークスを制した。

凱旋門賞に勝利したトニービンが日本にやってくる。

それは平成の三大種牡馬として日本競馬の主流の一つをつくった。

エアグルーヴは牝馬にして天皇賞を勝利する。

吉田善哉が死に際に遺したサンデーサイレンスは日本を変えた。

それは今なお続く日本が誇る最強血統の主となった。

アドマイヤグルーヴが母仔3代G1制覇を成し遂げた。

 

そのアドマイヤグルーヴが死に際に遺した最後の血統がドゥラメンテ。

 

それは競馬の祭典『日本ダービー』を82年の歴史上最速タイムで勝利する。

 

それは漫画のように実現した。

 

「みどりのマキバオー」というジャンプコミックスで主人公のライバルであるカスケードはまさにそれだったなあと現実と仮想の区別がつきにくくなるほどの現象だった。

 

これがドゥラメンテが競馬の歴史のうえで担った役割となった。

 

それを彼自身のドラマとみるかどうかはなんとも言えないところだ。

 

はっきり言えばそれはなかった。

 

なかったという現実。

 

どうしたってオレは彼の現役生活をドラマに仕立てあげることが出来ない。

 

とくにダービーからの1年はそれ自体なんの素材にもならない。

 

それならダービーで引退したほうがまだわかりやすい話だ。

もしこの世の全てに意味があるというのなら、

わざわざ骨折から、再起を期するために万全を期して復帰時期を遅らせてまでやってきた今年の戦いは一体何だったんだと。

なんのために彼は頑張ったのか。

意味を見つけることが出来ない。

復活のためではなかったのか?

まあ賞金は稼いだしそれはよかったんだろう。

 

だがドラマという点からみればそうなってしまうこれも現実。

 

しかしまた、

 

それでも復活を期さなければその可能性もなかった。

 

結果それは叶わなかったが、

先のことなど誰にもわからないから。

将来が決まっていることをやっただけではそこに感動はない。常にいつだって先がわからない暗闇の中で希望を見出して進んでいくからこそそのさまは輝くわけだ。

「どうせだめだろ」「どうせだめなら」「どうせやっても意味ない」

それも現実でそれが悪いなんてことはない。

ダメなんてこともない。

現実は非常に厳しい。

折れていい。

 

だからこそ挑戦は心を動かすドラマになる。

 

そしてそれはやっぱり結果として成就しなかった。

それは漫画のようにはいかない。

 

だから結果としては全てボツの企画みたいなものになった。

 

オレもその程度のシナリオしか作ってやれない。

だからどれだけ頑張っても、

「報われる」というほどには誰も覚えてはいない競走馬となってしまった。

 

 

もしこの先があったなら、

というのはつい先日まではありえた話だったが、

もしこの先があったなら、

いろんなドラマを作る余地があった。

 

デビュー戦で敗けて無敗の最強馬がなくなっても

骨折で三冠制覇が絶たれても 凱旋門にいけなくとも

ドバイで敗けても

宝塚でまた怪我をしても

 

走る限りはなにかがそこに生まれた。

 

走ってる限りは次があった。

 

宝塚でまた怪我をしても

 

この先はついに無かった。

 

だからきっと誰も覚えていない馬になる。

 

だからまあもし彼のことを誰かと話したくなったら、それはもうノーザンファームなんかにでも行って彼を知る人たちに話しに付き合ってもらうしかなくなるというわけだ。

可能性の話としてさ。

 

競馬というものが1つのシナリオだとしたら、

ドゥラメンテはこうして脇役となったわけだが、

 

これは現実の世界。

しっかりと知ってるひとは知っている現実のお馬さんなのだから。

テレビに映る人気者だけ、大企業の大富豪だけ、スポーツ選手のスーパースターだけが価値ある存在ではないんだからさ。

 

しかししかしそれでも、

 

史上最強のサラブレッドを超えて10年ぶりに更新された「2分23秒2」というダービーレコードタイムはもうしばらくはあの頂点で点滅されつづけるのかもしれないけど。

 

まあ見事にまた馬ごときに夢を見たわ(笑)

 

でも走った期間が短いとはゆうてもその中でものっそい稼いどるし、

皐月ダービーの2冠馬なんだし贅沢言っちゃあいけねえよってところでもあるんだよね。

さらにそりゃあ春二冠馬なんだから記録に残るし、みんな覚えてはいるんだろうけどさ。

日本競馬の歴史として記事が書かれるようなときにHタグで見出しに載るかってな話で。

 

ついに

とかこの先は書けない。

 

それはその役目のある馬に与えられる栄誉だから。

その役目はついにドゥラメンテではなかったから。

勿論そんなの贅沢な望みなわけだけど、

彼にはそれが出来るだけの力があったから。

これがイケない。まったくけしからんよ。

こんなパフォーマンスが可能な力を持っていたばっかりに。

ただただ悔しいということですよまったく贅沢ですいませんねまったくごめんなさいね。

よくやったよ。

十分過ぎる名誉と栄誉を引っさげて繁殖人生が始まるというだけであってさ。

アドマイヤグルーヴの血が広がっていくのだろうかってな具合で。

種牡馬価値を心配してるわけだけど。

→「【種牡馬価値はどうだ】骨折ドゥラメンテ。花盛りを棒に振る2冠馬へ。サドラーズ女子をゲットせよ。」

結局、お嬢抜きに観ることがなかったドゥラ坊っちゃんでありました。

チャンチャン。

 

それではお聴きいただきましょう

ガーネットクロウで「夢みたあとで」

 

 

なにごとも続けなくてはいけないね。

ドゥラメンテ世代 熾烈

ドゥラメンテが教えてくれたこと。

だからそういうことになる。

ドゥラメンテの追っかけをしていて

一番心が動いたのは

「とにかく続けていなければならない」

ということだった。

なにを大層なことをいおうと謳おうと「やめてしまったらそれまで」ってこと。

ドラマにもクソにもなりゃしないということ。

 

よく幾つかのサイトさんや同人作にしても起業にしてもブログにしても最初は威勢がいいと思っても、

 

つぎ覗くと

 

ほったらかし

 

というものを見かける。

 

よく見かける。

 

それは別にいいんだよ。

 

割に合わなくなったから辞めたんだろうし、

失敗してやる気が無くなったからやめたんだろうし、

ボロクソ言われてヘコんで辞めたんだろうし、

誰にも相手にされないから恥ずかしくなって辞めたんだろうし、

自分に自信を失ったから辞めたんだろうし、

他にやりたいことを見つけたから辞めたんだろうし、

自分には合わないっていうことで辞めたんだろうし、

新しい人生のために辞めたんだろうし、

 

全て正当な理由だ。

 

誰も文句なんて言いやしない。

すごくわかるよ。

 

すごくよくわかる。

 

むしろそれについての論文を500枚ほど書けるよ。

 

そりゃちょっとなにかやってみて辞めんのとはちがうわけだよ。それなりに息巻いといて、すぐ辞めてまうというのはさ。信用的な事がアレになるわけで。

そんで実際自分には「無用」と判断したなら全ての恥辱を忍んで戦略的撤退で生きて汚名をそそがんみたいなことも有りだ。

わしも人のことはよういえんわ。

これからも細かいことなら「やって合わなきゃ辞めて」っての繰り返すけどねっ。

 

だからそれはもはや「良い悪い」という次元の話じゃない。

 

まあこれは「目指すものの違い」みたいなものがあるんかもしれない。

 

「なにに価値を感じるか」ってな具合のさ。

 

オレはドラマ性かな。

 

だから辞めちゃったらそこで全て終わっちゃうということで試合終了ならぬドラマも終了。

 

自分にはあまりにも無さ過ぎたから自分で後悔しないくらいに動いているのはそれが大きい。

RPGが好きだったのもそれが全てだったんだと最近やっと行き着いた。

自分の人生として遊んでいたからあんなに楽しかったんだって。

まあそれは別ブログでおいおい決着させるとして。

それで終了させることで「終わりの始まり」ってな具合で新スタートが切れるという良い点もあるんだけど、まあそういうんじゃなくてさ。

 

「続けてさえいればきっといつか良いことがあるよ」

 

なんて

吐き気をもよおす何回つばを吐きかけても気がすまないような文句

を言ってんじゃない。

 

そんな話じゃない。

 

けっきょく自分の人生だから。

 

自分が動くの辞めちゃったら誰が自分を楽しませてくれんだってことよ。

 

子供の頃みたいにいじけてりゃあ誰かが慰めてきてくれるんかってことよ。なんだかんだ言うてもオモチャ買ってきてくれるんかってことよ。

 

結果がどうあれ

なんであれ

楽しむことはできると思うんだよね。

それが出来なきゃもう単純に割に合わない人生なんだから死んじゃったほうがいいから(笑)

悩む必要すらない。

楽しめなきゃ生きてる意味はねえんだから。

 

 

じゃあ誰が楽しませてくれんだって話だよね。

 

 

30、40にもなるオッサンをわざわざ楽しませてくれる女神様でも居るんかい(笑)

 

一番確実なのは自分自身だろう。

そりゃ

「人を楽しませれば、今度は人が自分を」

みたいな50Lのゴミ袋に詰めに詰めても入りきらないような理想論もあるよ。

そんあこたあわあってんのよ。

ただそれでもそううまくいかない時どうするか?

って話よ。

やめんのかって。

 

だが自分自身でも最低限は楽しめるってことよ。

 

最低でもそれくらいは楽しめるんだよ自分が動けば。

 

そしてやり通せば「形」になっていく。

 

「これは自分がやったものだ。」

 

って思える物があるってのはいいよマジで。

プロフカードぼたん

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