『人間』も『値段』が決まる。
そんなあったりまえなこと。
いやそれはもう誰でも、とくに大人ならばだれでもわかってることなんだろうけど、具体的に理解していくと「どういうことなのかな」って整理したくなった。
とくにこれは青少年期にもっと知っておくべきことだと思うな。
人間もコストでみられるんだってことは早めに認識しないと。仁義を欠いちゃあ人の世は渡っちゃイケねえんだから。
「都会の人はヒトに冷たく、田舎の人は優しい」って。
「都会には人が一杯いるから」人の価値が低い。
「田舎にはいないから」人の価値が高い。
単純に『希少価値』のお話になる。
ひとつには。
そこに人や猫やカラスなどの「違いがある」と考えるより自然に考えられる。というかそう考えるほうが、「“価値”とはなんだろう?」を考える際に有益だから。
都会ではヒトなんかいくらでもいるから、それぞれの価値が大事。
好きなことや、やってることや、ルックスの良し悪しや、何もかも見えていることすべてが判断基準になって価値が裁量されていく。
「ヒトかどうか」はあくまでひとつのパッケージ的な指標でしかない。
「法に守られた対象」であるとか「自立歩行型」であるとかなんとかかんとか「人の人たる定義」のごとく哲学的な、あるいは科学的な物差しで測ったときに大勢となるレッテルみたいなもの。
でも「それ自体の要素」に注目し、それぞれの価値を判定したとしたなら「それぞれが価値基準」になる。
つまり『“ヒト”ってだけで価値があると思い上がったら困る』って話。
「ちょっとそこの困ってそうなヒトを助けるより、バイトしたほうが得。」
別に「モラル」の話ではないわけで。「コスト」の話なわけで。
都会のように発展した「色々やることがある場所」では、常にさまざまな価値が生まれているから、そのなかで「なにをするか」という選択肢が多く、
結果「自分にとって最も有益で価値があること」を選択することになる。
ちょっとした時間でも、バイトできるだけの豊富な案件もあるし、メイド喫茶みたいなよくよく考えれば不思議なサービスも豊富だし、とにかくなんでもある。と思えば、
たった「1秒の空き」ですら「スマホゲームのクリックタイム」で埋まっているくらい。
常に自分にとって有益だということにコストが使用されている。
ここでは「使用されるチカラ(資源)」の事として用いるぞ。「限りあるチカラ(資源)」であるコストをどのように使用するかということ。
まあ実際には、
「そのヒトがヒトであるがため」に備えている(または備えさせられた)「人情」というような「感情的なモノ」によって、「バイトするよりちょっとそこで困ってるヒトを助ける」ということはある。ただしそれらも「自分にとって有益なことを選択した」ということには変わらない。
「自分の精神衛生を優先した」みたいな。
あるいは、
「別にここにいるのは自分だけではないし、誰かやるだろう。オレがやる意味ない。」という効率的コスト計算によってもやはり「より有益な方」を選択することになる。
田舎だとそこまでやることもないから、ヒトと関わりたくなる?
別に「ホスピタリティ」の話じゃないわけで。「コスト」の話なわけで。
田舎だと「ちょっとした時間をメイド喫茶で遊ぶ」とか、あるいは「日雇いバイトを入れる」とか、それほどの案件もないから。
「時間」は確かに「貴重なその人の限りあるコスト」だけれど、ここでは「その使う場所があまりない」のかもしれない。(ネット社会以前は)
だから、「ヒトと積極的に関わったほうが有益だったんだろうなあ」って。
ただ時間を持て余しているより、
ヒトと話をしてアドリブの効いた会話をすれば新鮮で面白くなるし、
来店する数少ないお客さんだからこそ、そしてとくにそれ以外にやることもないからこそ、
ホスピタリティの効いたサービスをしたくなることにもなる。
「客も多く」、「空いた時間にはすぐスマホでクリックタイム」ができるなら、すべてが「それなりに効率的にこなすだけ」になったとしてもおかしくはない。
これはやはり「モラル」でも「ホスピタリティ」の話でもなくて、
「コスト」の話。
そのヒトの「ヒトとしてのレベル」とか、「資質」とか、「情深い」とか、「ヒトの気持ちに寄り添える」だとか、「優しい心を持っている」だとか、そんな話じゃなくて、
「環境」とか「状況」でいくらでも「ヒトって変わる」という「コスト理論」の話。
これまた当然のことだけど、「報酬が多ければやる気がアガり」「報酬がなければやる気がサガる」というあったりまえなこと。ここで言う「報酬」は「自分にとってより有益なこと」という「価値」のこと。
「自分にとってより有益なこと」には「より高いコスト」が支払われる。
その人が好きだからとか可哀想だからとかそんなことで考えるより、「自分にとって価値があり、コストをかける必要がある」ということでそこに「関わり」が生まれる。
「なんだか無機質」なようでいて「公正な評価基準」でもある。
こんな考え方は人情味を欠いているかもしれないけれど、
「自分をまったく知らない世界」に足を踏み入れるときに価値がある。
そこでは自分を知ってるヒトなんかいないし「誰それ」っていう世界。
自分がいままで「親」から可愛がられていたり、子供の頃から関わっている「地元の友だち」や、子供の頃から過ごしているがためにそれなりに「その活動録が人に浸透している」からこその「自分に対する評価」で。だからそこに「人情味」みたいな関わり方がうまれてくる。
ってだけ。だから「コストをかけられる存在」ってだけ。
そんな価値が自分になければ、コストはかけられないからね。普通は。しかし逆に言えば、
「どんな存在だろうと、その価値があればコストをかけられる存在になる」
という『公正な理論』でもある。
「貴族に生まれなくとも」尊重されるし、「その人の子供に生まれなくとも」大事にされるし、持って生まれた性分のために「神に愛されずとも」自分自身でも自信を持てる存在になれるという公正なセカイ。それがコスト理論。
「人」ってだけで、「子供」ってだけで大事にされるのも考えもの。
人類平等とか、ないから。
皆知ってるように。ただし「法」としての「権利」は享受できるという「人がつくった制度」としては存在するけどね。こうして人は人自身のうちに存在する不都合を人なりに解決しようとしてきたわけだけど。
まったく素晴らしいね。
地べたを這いずり回りながら、何千年も、魔法に頼らず、ときには神にすがりつつも、それでも「現実の問題を現実的にどうにかこうにかしてきた」という歴史はさ。
まあそれはいいとして。
「自分の価値」を考えるべきだ。
「子供」ってだけで大事にされると、いざ大人になったときに「自分のコスト」を考えられなくなるんじゃないか?
だなんて考えるオレですよ最近は。
これも当たり前なことで、特別こうして記事にすることでもないのだろうほど普通のことなんだけど、なんかこう「子供と大人の境界線」みたいなね。
ある時から、いきなり価値が下がるのに。
それに気づかない。あるいは、そのことあるを覚悟して、それに対抗手段を練らない。みたいな。そして困る。みたいな。そして40歳無職ニートみたいな。
仮に15歳で無職ニートになったとして、
それから20年間そうであり続けたとして、
その人は一体何が変わるんだろうか?
なにも変わらないよ。15歳の少年のまま。でもカラダは35歳のおっさん。
彼自身はなにも変わらないのに、世の中にとってはぜんぜん変わる。
「15歳の少年」は未来ある健気で常に気にかけてやらねばならない「みんなの子供」みたいな扱いを受ける。
このことはあながち言い過ぎでもない。
「35歳のおっさん」はハロワの人しか関わってくれない。
これはなんでもそうで、17歳の女子高校生だから価値があった子も、3年経って20になった途端その価値を失墜させることもあるわけだから。
あくまでそれだけなら。
だから「自分の価値」を考えて、あるいは伸ばし、磨き、強みにしないと「これは大変な目に遭うぞ」だなんて知る必要があるのではないか。
それはもう10歳にならない時点で理解できることなのに。
ただ「子供」ってだけで尊重されていると「勘違い」しかしない。
それは「愛」を知るための必要な教育なのかもしれないけどさ。
「無条件に人と人は愛し合い尊重しあうことができる」みたいなことを教える場所みたいな。
だからこそ酷い目にあっても「人を信じる心」が僅かにでも残り、やり直しが効くようになる「教育なのだ」みたいな。
まあそれはしらないけど。
たしかに「無条件の愛」みたいなことも必要だろうとは思うけど、それは「家族や身近な友達の場合のみの限られた希少の愛」であって、
学校ぐるみで作られた上辺だけの「愛ごっこ」なんてしたって問題がややこしくなっていくだけだと思うんだよオレは。
さらにいえば「そんな宗教的な押し付けがましい道徳心はどっかの誰かさんの私塾でやりゃあいい」ことで、「天下の公共教育がやることなのか」とオレは思うね。
「哲学」をやらせりゃいいのに。
「考える事そのもの」なら誰にでも当てはまるから。「その人がその人自身の人生を考える」ってことはリベラルアーツの中枢を成していた教育だったのに、
「戦争を引き起こした元凶であるからという理由で生まれた戦後の反精神教育」から触れられないようになっていった。
「あれは軍部の押しつけ思想でしょ」って話なんだけどさ。そして「押しつけであるのは今の教育でも同じでしょ」って話なんだけどさ。
まあそれはいいとして。
【結論】ガキの頃からでも何かできる存在をめざすべき。
「意識高い系」とか「自分磨き」とかなんや煙たがられるけど。
「え、おまえ宿題やってきたん(笑)必死すぎ(笑)」みたいなライアーゲームが繰り広げられていますけれど。
実際、「なにも出来ない存在」は悲惨だからね。
自分を大事にできないやつが人を大事にできんのかって。
自分の痛みがわかるから、人の痛みを知るわけなのに。
「自分にとって大事なこと」があるのなら、
「それを使う」ってことが「どれだけ重大でありがたいことなのか」なんてすぐに分かる。
「それに対してなにも出来ない」って情けないんだよほんと。
そしてそれは気持ちだけじゃなく、
「そういう状態でいたい」ってニートのオレはずっと思ってた。
だからキツかったんだって知ってた。でもなかなか動けなかった。活動して自分が大事だと思えることが増えるほどに、「何かしてもらったら何かできる存在になりたい」っていう気持ちも増えた。
「自分が今まで感動させてきてもらったモノ」に「恥ずかしくないことはしたいなあ」だなんて。
ただしこれは「人に認められるため」にやることじゃなしに、「自分が認められるため」にやるべき。それこそ「自分磨きの本懐」だ。
これはオレの持論。前者的な考え方でやっていても人によってはいいんだろうけど、自分はしっくり来ないから。
だってこの理論はあくまで「自分がそれに価値を認められるからこそ」「相手の価値にも共感してしまう」という作用を利用しているから。
自分が「心で理解」しなけりゃすべては上っ面のポーズで終わってしまう。
つまりさあ、
「自分磨きしないヤツ」って、
「歯を磨かないヤツ」と違いはないんじゃねえの?
って話ですよ。
仁義を欠いちゃあ人の世は渡っちゃイケねえんだよ。
いや、ほんとこれね「歯磨き」はしてもらいたい。とくに不登校ひきこもりで人と接しない状況の人は怠りがちだろうけど、
カレーとかコーヒーとか摂取してすぐ寝るなんて殺人行為だから。
最早。歯は取り返しつかんから。親も親で子供に歯磨きさせないのは、金あるのに教育費に金かけないのと同じレベルで罪だから気をつけて。