「ニートの極意」までは覚悟のおはなし。
あとはもう突き進むだけ。
活動するだけ。
現在進行形なやる気の出し方。燃料となるように、活動しやすいように、そんなおはなし。
現在進行形な百万世界天上天下唯我独尊幾星霜な活動にたちはだかる荒波を乗り切る気焔的哲学たち。いみわからんやろ。SEO的に絶望的な表現やろ。(ニートの活動)
それにしても活動するのにもっとも重要なものがあるけどそれは『自信』だ。
人を動かす「欲」、「恐怖」、「自尊心」
自尊心というのは自分を尊ぶ感情のこと。
気高さをイメージさせるプライドの角や傲慢な態度で他に接する不尊のことではなくて、
自分を大事にする感情のこと。
※自尊を傲慢にみるのはおかしいと思うね。それは「我意」であるから。つまりエゴ。自尊は自分を尊んで大事にする感情のことだ。もしそういった意味でなくともここでは「ではそういった言葉がないのでそういった意味で使用する」ということでお願い致します。
そして、
自信はただただ「自分への評価」である。
『自信』は賢者の石だ。
武徳が軍に宿るには戦って勝利する経験以外には存在しない。
(フォン・クラウゼヴィッツ)
「成功」とはお金を稼いだ人という意味ではない。
「目的を達成した」という意味。
換言すれば「やったことがうまくいったか」ということ。
それだけが人に自信をつける。
敗けても自負心はつく。
生成されそこねた「ナニか」が燃やし尽くされ続けて燃料になるがごとくで、
「何か」は燃え続けるものがあるね。
自負心はほとんど開き直り。
自分は「やったんだ」という開き直り。
やらなかった経験が長すぎると「やった」だけで誇れるようになる。
それだけのことをやってきたという自負。
いや、やったし。
と開き直ってむしろドヤ顔。
考えがあって口で言っても何もしない。
やらない。
理由があるから?
ねえだろ。
考えばかり、
口ばかり、
なにもできない、
なにもできない。
いや、やったし。
自分でやったんだという自負。
別に偉いわけじゃないんだ。
そんなことだれでもやってる。
何も偉くはない。
でも、やったし。
自分で考えて、
自分で悩んで、
自分で苦しんで、
自分でやって、
自分で転んで、
自分で敗けた。
自分を全部使ってる。
能力が足りないとかやり方が悪いとかそれはあるだろうが、
自分でやったんだっていうこと。
いやニートだけどさ。
やれば勝つか敗けるかはする。
やった以上はどっちかにはなる。
ただそれだけのことなわけだ。
「やった」以上は。
さあ、やるだけやろう。
さあさあどっちへ転んでも、
自信がつくか自負心がつくかのどっちかしか無い。
まあとにかく、
もう一度死んでる身なんだし。
あの死の旅で。
1から100まで1000まで自分の人生を究極的に見なおして見つめて考えた末の末なんだし。
コケても元々なかった命。
元々すべて諦めた理想。
息をしている以上、
何かしなきゃ損。
という気概であとは突き進むだけ。
選ぶも何もないよね。
「やる」しか道がないでしょ。
もう考えたじゃん。
やるかやらないかは。
生きるか死ぬかは。
それでここにいるわけじゃない。
じゃあもう選ばなくともやるだけじゃん。
どうせやるなら考えるだけ無駄なんだからやるだけでしょう。
「どうしま…やる。」
食い気味で。
「どうしよっかな~」
と考え中に「やる」のボタン押しちゃう。
もう押してから決めちゃう。
ビビったらやめてもいいんだし。
ヒーヒー逃げまわったって動いている分には「なにかやってる」って範疇に入るからね。
やれないことはしょうがないからやれることをやろうよ。
だってやれないことはさ、
なんていうの、
ほら、
しょうがないじゃん。
そんで勿論、
熱血青春ラグビー部のごときものじゃない。
「とにかくやろう、やらねばどうする、明日へ向かって走り続けるんだ」的なそういうことじゃなしに。
基本うまくなんていかないから。
疲れるししんどいからね。
まあそんなもんよ。
でもそう気負うことなく、
疲れたら休めばいいし、
「やれることをやれるだけやってたほうが楽しいんじゃないか」
という仮定から始まってるわけだよ。
これ等の運動は。
「やれないもんはやらんでいいから、やれることはやってた方がよくね?」
というシンプルな気持ちでさ。 そしてそれが、
「自信へ繋がったら何かできることが増えるかもしれないし、そうなればもっとおもしろい」
のではないかという仮説。
そうじゃなかったら別にただそれだけのことなんだし。
「まあそんなもんか」って。
でも「そんな世界」でやるだけやってるんだし別に「やるだけはやったし」ってな具合で、
最悪でも自負心はつく。
そうしたらこう。