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13歳で働いた元少年労働兵がアラサーニートで人生を生ききる為に『やれたらやる』ブログ。「もしかしたらこれやったら違う日になるかも」

信州/長野旅ブログ

川中島古戦場旅ブログ/スマブラ状態だった竜虎合戦が戦国ブームもオレもコーエーもつくっていった

投稿日:2017年10月26日 更新日:

★アクセスマップ「川中島古戦場/八幡原史跡公園」(長野県長野市)

★地元マッピング動画「竜虎相撃つ現場をリポートっ!!」

☆川中島の合戦のすごさ -コーエーテクモゲームスからGAKUTOまで-

☆スマッシュブラザーズ状態の「第四次川中島の戦い」とは?

 

歴史シミュレーションゲームの日らしい。10月26日は。

コーエーテクモゲームスの太祖が制定

 

 

地元マッピングNo.7「竜虎相撃つ現場をリポートっ!!」

【生撮り】川中島の霧/カワナカジマ・ミスト

 

ゲームのやり過ぎで間に合わず。あとで追加予定。

 

 

「川中島古戦場」アクセスマップ

 

信州争覇戦-

 

「虎の本拠・甲斐/山梨」でも「龍の本拠・越後/新潟」でもなく「信濃/長野」が舞台。

 

「八幡原史跡公園」こそは第4次川中島合戦の舞台らしいが、結局それまでの攻防を含めると「川中島一帯」が大きなステージになっている。

 

1969年の大河ドラマ「天と地と」の影響によって整備されたのだとかね。

 

 

この一騎打ち像はうちの親父が「16歳の時にバイトで建てた」って言ってたぞ。

すごいんだかすごくないんだか微妙なライン

 

そういえば謙信と信玄がもともと好きだったし、しかしどちらかと言えば「オレは謙信派」「兄貴は信玄派」だったものだがちょうど我が故郷は龍虎が相撃った天下分け目の争乱地であったのだから不思議な事でもなかったのであるスピリチュアルなパワー的に言えば。

 

何かもっと大々的なイベントやらないかねこの場所。

※10月の上旬には「川中島古戦場まつり」という戦死武者たちの霊魂などとワイワイやるための鎮魂花火フェス的なものが開催される!

 

 

以下、

 

「川中島の合戦」のすごさ!

 

 

コーエーの始まり「川中島の合戦」

 

祝!シブサワ・コウの歴史ブランド35周年!

※シブサワ・コウとはコーエー開祖である襟川陽一が用いたクリエイターネームのことであり、謎の人物的な演出をしようともがいた結果なのだ!ガンダムの矢立肇みたいな!三国志シリーズなどの新武将エディットなどでこの名前を打ち込むと隠しパラメータが登場したりする。

 

「川中島の合戦」がリリースされた10月26日は「歴史シミュレーションゲーム」の日に。

オススメ参考記事・「川中島の合戦が復刻されるので,川中島古戦場を訪問してみた」4gamer.net さま

 

http://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/koei

信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 「世界初ばかりだとユーザーに怒られた(笑)」/電ファミニコゲーマー

https://www.youtube.com/watch?v=SQVTjF93fJU

『川中島の合戦』からはじまった歴史SLGを振り返る 【シブサワ・コウ生出演】「歴史シミュレーションゲームの日」記念特番/電ファミニコゲーマー

 

手作業でダビングされた「川中島の合戦」のヒットから今日の大ゲーム企業は生まれた。

 

ちょっと前までは「歴史のコーエー」として「ニッチジャンルにおける雄」でしかなかったコーエーも、今日では「無双シリーズ」の大ヒットなどによって多彩なジャンルに進出し大成を果たしていた。

 

つまり今日ではコーエーテクモゲームスはゲーム界のビッグブランド。

 

トップの襟川夫妻は日本の富豪ランキング上位に入るようになっているとかよ。

 

コーエーのゲームにはお世話になりまくり。

 

ウチの兄貴はそのせいで世界史の教師になりましたよ。

 

m(_ _)m

 

 

映画も大ヒットした「川中島の合戦」

天と地と 天の盤 [DVD]

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12位:「天と地と」(1990年/興行収入92億円)

参考・「日本映画の歴代興行収入一覧」Wikipedia

 

「借りぐらしのアリエッティ」と「永遠の0」に挟まれて、邦画歴代興行収入12位を記録した映画のテーマ。

 

「シン・ゴジラ」よりも上という川中島の合戦であった。もちろん一位はジブリの「千と千尋の神隠し」であるけれど。邦画2位、全ランキング4位は「君の名は。」であるとか。

「大作だから売れただけ説」あるよこの映画

 

「スマッシュブラザーズ状態」-戦国史上最大の激戦ぶり!-

 

参戦総数3万余にしてその戦死者数が7000人を越すとされる「損害率20数%」という数字。

 

天下分け目の「関が原の戦い」では参戦総数約20万にして戦死者数約8000人と損害率は5%を切る程度になってしまう。それで天下の行く末が決まったのであった。このように「普通はどちらかが全滅しなくとも大勢不利となれば退却が始まっていく」のが通例であるのに対して、「川中島の戦いは史上空前の遭遇戦であったことから大乱戦スマッシュブラザーズ状態」に突入した結果にひどい損害を計上したのだ。

川中島スマッシュブラザーズとか出ればいいのに

 

 

戦国最強同士の決戦

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“越後の龍”上杉謙信

©「信長の野望」コーエーテクモゲームス

 

その神がかり的な武略から“軍神”とも称される上杉謙信。

 

後の天下人である徳川家康をやすやすと破るほどの“戦国最強軍団”を率いた巨魁・武田信玄との死闘はもとより、関東平野の支配者である北条家が本拠・小田原城を恐怖に陥れ、唐沢山城の戦いではわずか40騎でもって突破して包囲を解かせた逸話すらあり、極めつけは魔王・織田信長の筆頭家老である柴田勝家との一戦においても格の違いを見せつけるような圧勝劇を演じてみせたケタ外れの軍事的天才である。

 

信長が安土城を山城にしたのは「謙信の上洛対策だった」という話があるほど。

 

ガクト謙信も人気。(07年NHK大河ドラマ「風林火山」より)

Gackt 龍の化身

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中華ならば「放浪の大軍師・李靖」「飛将軍・李広」、欧州なら「フランス最強の武将・アンリ・テュレンヌ」、古代なら「世界四大軍略家・ハンニバル」などなど好きだけれど、中でも上杉謙信はいちばん好きだったりする個人的に。

 

“甲斐の虎”武田信玄

©「信長の野望」コーエーテクモゲームス

 

天下人に最も近かった“戦国最強の漢”にして謀略大好き武田信玄。

 

魔王と云われる信長があまり謀略感がないのに対して、ゲームでは王道だの何だのとのキャラ付けが横行している信玄公はめっちゃ謀略好きである。2017年NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」においても

 

「今日も謀略で飯がうまい感」爆発中で人気がグングン上昇中。

 

大唐帝国の「聖天子・李世民」を範とするかのように「孫子」を学び、「玄武門の変」に倣ってなのか親を追放して実権を掌握。奇しくも「武田二十四将」「凌煙閣二十四功臣」に比例してしまうなど根っからの中華ファンでもある。そしてその実力は言わずもがなで、後に野戦名人とされる徳川家康も「三方ヶ原の戦い」ではまったく歯がたたないほどの偉人世代だった。

 

 

龍虎相撃つ!! ~5つの川中島合戦~

©「100万人の信長の野望」/コーエーテクモゲームス

 

参考・「武田信玄と上杉謙信 川中島合戦の謎」小和田哲男(静岡大学名誉教授) さま

 

第一次合戦「布施の戦い/更科八幡の戦い」(天文22年/1553年)

 

武田の「北信濃」侵攻!

 

この戦いによって虎と龍が相打つことになる。「甲斐(かい/山梨県)」を本拠とする「武田晴信(のちの信玄)」が、広大な土地を有する「信濃(しなの/長野県)」を手中に収めんと侵攻を開始。

 

猛将・村上義清が立ちはだかる!

 

南信濃は制覇するも、北信濃には猛将「村上義清」の存在もあって苦戦を強いられていた。前回地元マッピングでやった「戦国のラストサムライ真田幸村と歴戦迷宮・上田城」においての「砥石崩れ」に見られるような敗戦も多く存在した。

 

軍神招来!越後の龍をよびよせた!

 

さらにはここへ来て「越後(えちご/新潟県)」の大名である「長尾景虎(のちの上杉謙信)」をこの戦いに呼び込んだというのだから村上義清の迷惑さといったらなかなかやり手。

 

 

第二次合戦「犀川の戦い」(天文24年/1555年)

 

武田、『三国同盟』結成!

 

いわゆる「甲相駿三国同盟」というもので今川義元、北条氏康、武田晴信らの「甲斐(かい/山梨県)、駿河(するが/静岡県)、相模(さがみ/神奈川県)の三つの同盟」みたいなヤツである。

 

つまり『北の龍を相手にするために、南は同盟で固めた』ワケ。

 

第一次川中島合戦の緒戦において「この相手は本腰を入れなければイケない相手である」という認識をしたということになるね。

 

虎がちょっかいを出しまくる!そして龍が出陣!

 

景虎(上杉謙信)方の武将たちを調略して寝返らせたりするなどして、晴信(信玄)は「だい好きすぎる謀略」でもって有利な状況を作り上げようとする。だが「流石にこれはうざい」ということで景虎(謙信)が出張っていく事態となり、両軍が犀川にて対陣する。今日では釣りの名所として楽しまれている犀川(さいがわ)である。

 

 

少し戦うも、200日以上メンチをきりあったまま両者退く。

 

ここまでは、まあいわゆる「威力偵察」のようなもので「虎が龍の力や出方を伺うためにネコパンチしました」みたいな状況の第2戦であった。

 

※しかし和睦の戦利として犀川の北側に影響力を持つことにも成功した武田のほうが有利だったという気がしないでもない

 

 

第三次合戦「上野原の戦い」(弘治3年/1557年)

 

本格的に『ドンパチ抗争』が始まる!!

 

とにかく両者はここからあの手この手で火花を散らすことになり、「武田が武将を寝返らせた」と思えば「景虎がやり返す」ということもあれば「三国同盟から北条までがやって来てバチバチにケンカに明け暮れた」のだった。

 

京都がピンチで将軍がお邪魔に入る。

 

なんやかんやとこんな田舎とは裏腹な日本の中心「京の都」において政変が起きまくり、将軍・足利義輝(剣の達人として有名だった武士のトップ)は「はやく景虎にこっち来て欲しい助けて欲しいマジヘルプ」状態だったので「はやくそんな戦はやめてこっち来て」とばかりに講和の仲立ちに入る。

 

※そしてなんやかんやと武田は有利な条件を得てとりあえず停戦した

 

 

そして皆さん、

 

いよいよ今日の「その時」がやってまいります……

 

 

第四次合戦「八幡原の戦い」(永禄3年/1561年)

 

決戦!熱戦!超激戦!龍虎相撃つ!!

 

「龍」は関東制覇に乗り出す!伝説の小田原城戦!

©「100万人の信長の野望」/コーエーテクモゲームス

本来の幕府スタイルでは関東を束ねるはずの大将・上杉憲政が「こんな鬼畜な戦国時代はもうウンザリだから景虎にあーげるっ」という具合で景虎を関東の大将(関東管領)に任命。景虎は上杉政虎と改名し、関東を平定して治める責任と目的と対義を持った。

 

よって当面の目標は上洛より関東制覇となり、北条と対決。

 

その本拠である小田原城まで神速で攻め込むも、家臣からの引き止めや信玄の邪魔(最前線に海津城を築くなど)もあって落とすこと敵わず撤退する。だが「関東平野の支配者である北条家の本拠をドツきまわしたその武威は天下にごうごうと轟いた」のであった。

 

※ちなみに手強い敵には「本拠まで迫らせて敵が疲れるまで守りきる」という国家戦略を用いてた北条であったのだ。この時代では珍しく「城下町を城壁の内側に入れて略奪できないようにしていた珍しいお城」を築いていた。世界的には普通だけど。

 

龍にとっては、「関東を制覇するには信濃を大人しくさせなければ叶わない」ことがハッキリしたのだ。

 

「虎」は天下統一のための上洛準備がしたい!

©「100万人の信長の野望」/コーエーテクモゲームス

しかし、そしてやはり、「越後の龍が背後に居ては京都への道などおぼつかない」し、ましてや「関東制覇などされたらゼッタイに不可能になってしまう」ことは小田原攻めの凄さでも明らかとなったのだ。

 

両者、決着をつけなければならなかった。

 

政虎は軍を率いて「妻女山」へ陣取り、信玄も最前線に築いていた「海津城」からの報せを受けて出陣する。夏の終わりの頃であった。

 

 

虎軍20,000 VS 龍軍13,000

 

 

上杉謙信は「1万以上の兵はいらない」と豪語していたことで有名であるけれど、確かにこの時代の特に日本の山がちな地形にあってはそれ以上の兵力はいらないのかもしれない。とにかくこの世紀の一戦においてすらこれだけの兵力差をものともせずに乗り込んできていた。

 

だが膠着が続く。両軍動けず。

 

「一度誤れば真っ二つになる真剣勝負」の中、「名人同士の読み合い差し合い」のなかで両軍動けずにいた。いや、動かなかったのか。

 

※ちなみに先に動けば落とせたはずの海津城を、政虎が妻女山から動かずにそうしなかったのは「生理痛が酷かったため」であるという説が存在しており、それも「謙信おんな説」の俗説を与えている要因

 

虎が動いた!『啄木鳥戦法』!

 

武田軍、キツツキの戦法を採用。

 

この状況を打開したのは甲斐の虎を支える忍者にして軍師である「戦神の隻影・山本勘助」が発案した「キツツキの戦法」だ。この鳥は「木の片側からツツイて獲物を追い出し、反対側に回って捕らえる」という狩りの仕方をする。つまり「龍を妻女山から突きだして、這い出てきたところを挟み撃ちにする」という作戦。

 

 

武田軍は軍を2つに分けて、

 

一方は「龍の君臨する妻女山」を目指した。

 

もう一方は「八幡原で龍を待ち構える」布陣。

 

 

虎は顎を大口に開けて龍を呑み込もうと待ち構えたわけである。

 

 

しかし見破る。龍が如く。

 

ここで、はじめからすべてを見通していたかの如くに動き出した政虎。妻女山に陣取ってから一切の動きを見せずにいた龍は、「武田の海津城から昇り立つ炊煙の量が多いこと」に眼をきらめかせた。つまり「いつもより量が多いということはその地を離れるために糧食を携行させるためだ」と気付き、それから考えうる戦術を勘案し、遂に敵の作戦を看破する。

 

夜、山を降りて川を渡る。

 

馬には布を食ませ、足裏にも布を巻いて音を殺して闇に乗じ、その身を山から戦場へと這い出した龍の軍。敵の別働隊の足止めとして1000ほどの兵を割くにとどめて、残りすべての戦力を信玄がいるであろう敵本体を破砕するために投入した。

 

濃霧登場!みえない!史上最大の遭遇戦開始!

長野県長野市千曲川サイクリングロードから出現する「カワナカジマ・ミスト」

 

これまで虎と龍は小競り合いを繰り返してきたが、会戦といえるほどのぶつかりはなかった。そもそもリスクが存在する以上、

 

「互いに深入りせず、いつでも退ける体制で戦って様子見をするのが常道。だからゲームのように戦力が0になるような戦いは存在しない。」

 

分が悪ければ退くし、退けるような戦い方をする。だが今回ばかりは

 

「敵の姿が間近に迫るまでまったくわからないという稀に見る壮大な遭遇戦」

 

が開始されたのだった。

 

 

 

千曲川特有の濃霧によって、

 

此処に『戦国史上最大の激戦』が開始された。

 

 

 

竜虎相撃つ!!

 

 

 

龍はうねり巻き、虎は翼を広げた!「車懸りの陣」VS「鶴翼の陣」

「くるまがかり」と「かくよく」

 

「車懸りフォーメーション」の異常さがよくお分かりでしょう。

もう丸ノコカッターみたいな

 

前半戦「龍が優勢!」

この戦いはまず完璧な読みをみせた「龍の完全勝利ムード」から始まるのだ。そもそもここまでやって勝てないのがおかしいほどに作戦勝ちを収めたのは龍の方。「車懸りの陣」とよばれる掟破りな秘法(まずまともな軍学書には載っていない異質な陣形なのだ)を展開して波状攻撃を叩きつける龍の攻撃に虎は防戦一方。

 

中盤戦「なんと五分五分にもってかれる!」

それでも、「あれだけの不利な状況で持ちこたえた虎の強さたるや尋常ではなかった」ワケ。ただの虎じゃなかったワケ。それだけ武田軍の底力は群を抜いていて、「戦国最強軍団」と呼ばれるに不足がなかった。「軍の強さ」「将の有能さ」「兵の強さ」というキホンがあり、くわえて「別働隊が戻るまで耐えれば勝てる」というモチベーションと、「武田家にとってマジでデカイ戦」という環境が士気を大いに高めていた。

 

激戦ぶり!信玄の弟が戦死!

信玄の実弟にして「17代甲斐源氏武田家の副将」、および「武田二十四将の筆頭」であり、「この戦で中央軍の指揮を取っていた虎軍の中核」である「武田信繁(典厩公)」が戦死するほどの血戦が繰り広げられた。

 

 

軍の中央をぶち抜かれたのに動ける虎軍。

 

 

世紀の一戦で完璧に裏を読んで敵軍の中央をしっかり破砕した龍もヤバければ、

軍の中央を破壊されてそれでもまだ戦える虎もまたヤバかった。

 

 

はっきりいって異常な戦容。

 

 

まずまともな戦闘じゃない。どっちも強さが振り切っているからこそ見られるはずのない展開が繰り広げられていた。

「キングダム」ばりな煽り演出

 

後半戦「虎の反撃!」

遂に別働隊が戦場へ到着して戦況は逆転する。龍はすかさず退却をするために中央突破を敢行して戦場を離脱しにかかった。その後は虎軍が圧倒してこの戦いは終結する。

 

 

龍と虎の一騎打ち!「武田信玄と見たり!!!!!」

©「100万人の信長の野望」/コーエーテクモゲームス

 

政虎スラッシュVS信玄パリィング

 

伝説では、この退却戦の際に混乱した戦場でかわされた一戦こそソレであるとする。政虎が馬に乗って信玄と遭遇し、その頭上に3度刀を振り下ろす(8度とも)。政虎スラッシュである。信玄はそれを3度軍配で受けて弾いた(8度とも)。信玄パリィングである。だがすかさず武田の宿臣である豪将・原虎胤が龍のケツを槍で突いて追い払ったとさ。

 

 

戦国最大のギネス激戦。

 

 

関が原の戦いと同じくらいに天下分け目の大戦となった「第四次・川中島合戦」- いや規模は違えども。「どっちが勝者か?」という点については明確な決まりがなく、「前半は謙信で後半は信玄」だとか「引き分け」だとか「首の数は信玄のほうが多かった」とか「守ったのは信玄」だとか「作戦勝ちは謙信」だとかとにかく伝説の一戦。

 

両者痛み分け。

 

どちらが勝ったにせよ、「この戦で互いに多くの兵力を失った」ためにその後の本格的な合戦は行われずにいる。互いを意識はしつつも実際には軍事行動を起こせない状況が続いたのだった。

 

 

すなわち龍虎の戦いはこれにてほぼ終わった感。

 

 

もう戦えないくらい痛かった。

というかもう戦いたくない。しんどい。

 

第五次合戦「塩崎の対陣」(永禄7年/1564年)

まあそれでも勢力圏が隣り合っているのでそれなりに小競り合いは続き、対陣は行われたようである。「塩崎の対陣」やもんね。聞いたことない合戦名やもんね。うちの親父の生まれは此処らしい。知らんか。

 

さて、

 

 

「第4次川中島合戦」はある意味で「天下分け目の戦い」だった。

 

 

両者が和睦でもしてこれほどの損害を出していなければ歴史は変わっていたとされる。

つまり、

「両者のうちどちらかが勝っていれば天下人になっただろう」と言われている。

 

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