「表現」と「お金」は根源的には違うモノ。
だからマネタイズは人に任せるかちゃんと考えたい。
それは「元素」のように遡ると電子や中性子や陽子のように「根源は別々のもの」である。
例えとして。
すなわち原理。あるいは源理。
「それ的に最初から違うことだ」ってお話。
「お金」の原理性質は「人の役に立つこと価値になること」
ここでは「お金というものは人が持っているもので、それを交換するには、その人にそれだけの価値を認めてもらわなければならない」という大前提を定義した。仮定としてであっても。
「表現」の原理性質は「そうしたいということ」
なんともある意味で動物的欲求と言うか149キロぐらいのノビのある直球ストレートというか「単純明快な定義」となっている。
だから表現はお金にはならない
基本原理として。つまりキホンとして。
これまた天性のジャイロボーラーの放つ180キロの手元でホップするストレートの類な簡潔を極めた定義である。仮定としてでも。
見ごとなお手軽三段論法
確かに実際には陽子や中性子や電子やなにやらの素粒子やなになに核や元素の類があったとしても、
「それらが互いに構成しあってこのセカイを多彩に作り上げている」わけである。
それだからまた実際にはわざわざこれらを互いに別離させて見る必要はないのかもしれない。
例えるなら「商品として売れるものもあれば、作品として売れるものもある」のだから。
※商品=お金ブツ/作品=表現ブツ
だがキホンは違う。最初は違う。
作品として売れたモノは結果として売れたに過ぎない。
もう一度言おう。
作品として売れたモノは結果として売れたに過ぎない。
そうでないならばそれは「作品を装っているだけ」だからだ。
「これは売るために作られていない」であるとか「構想10年の意欲作」だとか「人生を賭けた」とかそんなことはすべて「人にとって価値のあるモノ」に成るための構成要素に、
「結果として機能した」か「そういう目論見として意図的に付加させたか」のどちらかである。
換言すれば「気付かずそうなった」か「ワザとやった」かのどちらかである。
それらのいちいちのストーリーや、その表現自体が人にとって価値あることになったのならば、それはお金化できる商品にも成る。コンテンツにも成る。
人にとってプラスの価値を持った時、そしてそれらがマネタイズというお金になる仕組みを組み上げられた時にお金が発生する。
ただ単に「買えるようになった」というのもマネタイズである。
作品はそれだけで商品になる。
買えるからこそ手に入りおよそヒトにとっての価値になるのだから。観ているだけでも価値には成るがその場合のマネタイズでは広告を貼ってお金を得るなどを行って商品化するだろう。
すなわち「マネタイズした時点で作品は商品」でもある。
それくらいのことなら常に行われていることで、だからこれらは互いに密接に頻繁に結びついているし、「作者と出版社」「製作者と販売会社」などの思惑によってそれらのスタイルは異なったり互いの要素の度合いは変わるだろうが、
しかしキホンは別々のものなのだ。
作品は結果的にしろ作為的にしろ人の価値にならない限りは売れないし、商品もまた人の価値にならなければ売れない。
作品の原理目的は「売る」ことではなく「表す」ことだから
あるいは創ること。作者がそれ自体どんな思惑をもってしてこのことを為したにせよ、「売るために作られなかったならば」すべてそうなる。なぜなら繰り返しになるが
「人のためになるべく生み出されるのが商品」で、「そうしたいから作られるのが作品」だから。
実際はこうなる
これもマネタイズの一例。
「これを創りたいけどそれだけでは食っていけないしこれが金にならんものかな……せや!美少女出したろ!そうすればビジュアル的に売れるわ」
この企てが成功をみるかどうかは別としても「作りたいものを作る」という行為はそれ自体バリバリの「作品」である。
だから売れない。そもそも売り物ではない。
今まで前提してきたキホン原理でいえばそれが売れたとしたならば「結果論」か「ワザとやったか」のどちらかということである。
この「ワザとやった」というものこそが「マネタイズ」である。
なお、ここでいう「結果論」の場合とはあくまで「その表現が人にとって何かしらの価値を有した」という意味での結果論である。「買えるようにしておいたら売れた」というのはマネタイズであるから。つづけて「結果として人の価値になった表現を売り物にした」のならばそれはマネタイズであり「ワザとやった」ことになる。細かく言えば。
「さあ言いたいことを言おう」のお時間です!
だから作品は売れないから。売らない限り。
★「【全文公開】伝説の漫画編集者マシリトはゲーム業界でも偉人だった! 鳥嶋和彦が語る「DQ」「FF」「クロノ・トリガー」誕生秘話」電ファミニコゲーマー
だから作品は売れないから。売らない限り。
大事なことなので自分に2回言いました。
マンガだって商品だから売れるために書くのは不思議じゃない。
でもそれは
うまいこと「表現」と「人にとっての価値」がせめぎ合って成り立つものであって
「キホン原理がこうである」からといって科学みたいに再現率100%は実現できない。
漫画家と出版編集者というニンゲン対ニンゲンがうまいこと噛み合って「ワザとやったり」、その表現が読者に「結果論」的に響いてその結果論からデータや傾向を導き出してまた精度の高い「ワザとやったり」をする。
でもキホンは別々だから。
ただ、「人の価値に成るためには?」ということだけで考えられたモノだけでは、
今の人間たちを最大に満足させることができなかった結果、
「こんなものを創りたい」という欲求から生み出されたものが、
結果として「人にとっての価値」になったりする。ソレは新しいものとして。
そしてマネタイズされて商品化を果たす。
炊飯器だけが商品ではなく、マンガも商品になった。
人が日に3度食べるご飯を炊く炊飯アイテムのような便利アイテムだけが価値を持つのではなくて、面白いというだけの物も売れる。
「面白い」という価値があれば売れる。
しかしそれがなかなか当たらない
「なにが面白いのか?」というのは「ワザとやってみても」かならず当たるものではない。
このことは「なにが便利か?」でもそうであるけれど、狙っても外すときはある。
だが誰かの表現が「結果論として」当たり、
それがマネタイズされていることでヒット作が出現する。
その法則性のようなものが結果として類推できたとしても「それがどこまで長続きするかはわからない」から面白いもので、
その超難度さはさながら数学者が何人もの狂人を出しながらもその定率が絶えず変化する『超弦理論』に至った境地のごときものだ。
「ブームなんかの流行は移り変わりが激しい」ってことですよこれは
「人の価値になったものが売れる」というキホン原理は変わらないとしても。
「面白くなくても売れるものはある」ということ
それが「何かしらの価値になっているから売れている」とは言えても。
「これだけ面白いものを作っているのになぜ売れないんだ!!!!!」
などという憤慨は、以上のことからすべて忘れ去るべき情念である。
売りたいなら商品を作るべきだし、しかしそれだけの思考法で考えるとニンゲンは皆同じようなものしか生み出せなくなるらしいので、やっぱり人それぞれ違う目的で何かしらを生み出している方が全人類にとっては有益だろうし、
それが「結果論」的にもせよ「ワザとやる」にせよ、あるいは「そのどちらもの合金のごときモノ」であるにしても
「まあそんなもんだ。」
という余裕がほしいものである。
まあそんなもんだ。て
面白いモノは作れる人に。売れるモノは売れる人に。
神のモノは神に。カエサルのモノはカエサルに。
イエス・キリスト
「政教分離」ならぬ「表商分離」である。
面白いものを作れるひとはそれを売ってくれる出版社やコンテストにでも持っていって売ってもらうのがやっぱり一番ラクだよね。
自分はとにかく面白いものを作ることにだけ専念できるし、売り手側からの要求を消化していけばいいんだから。
あとはもうそこはマンパワー的なセッションによってそれがうまくいくかどうかが決まるというだけで。
「やりたいこと」と「売れること」がうまいことぶつかり合ってうまいことうまいものが出来上がるという風なうまい話である。
やったねっ
うまくいけば名編集者と名漫画家のタッグになるというだけで。
アウグストゥスとアグリッパのコンビのように。いくら理屈があっても結局は相性だったりうまくやるかどうかでしかないのだし。
それでも「少しは気が楽になっていく考え方がある」と思ったわけだ。
「複雑なことは分離して考えるほうがラク」ってこと
「各個撃破」するとラクってこと。
表現も商品もけっきょくは互いに密接に結び合っているというか絡まり合っているというなんとも如何わしい有様なわけでございますから、あえて別々に分離して考えることで見えてくるものは山ほどあるし、
「一つの原理」もみえてくるってもの。
これは「売ってるのか作ってるのか」が分かる。
そうするとキモチはラク。
専心できるから。
「数年賭けてもまったく売れないモノ」と「いともたやすく収益が出たモノ」を得た10年の実経験からでした
とはいえ「目指し方」はそれぞれ
「錬金術を追いかけてたら科学の発見をした」
というようなことはザラにあって。これはみごとに「結果論」てきな成果なのだろうけど。キリスト教以降では神の世界の何かしらを証明するためのものとしてやはり科学的発見につながったりしている。
そしてその人達は「錬金術だからやれた」とか「神学だからやれた」というわけなのだろうし。
皆が同じ理由、すなわち例えば「売るために」ということだけでやっていけるわけではないのだから。