ニートブログむらくもの野望

13歳で働いた元少年労働兵がアラサーニートで人生を生ききる為に『やれたらやる』ブログ。「もしかしたらこれやったら違う日になるかも」

無職長征一万光年旅記

うつでもそうでなくとも必ず死ぬから「私は生きていた。」【死がやってくるその時まで無職ニートなボクの死生観をすべて話そう(其の一)】

投稿日:2015年11月12日 更新日:

動画元「World Health Organization」 
うつと闘う全ての人へ贈る「4分間の映像」

鬱からはじまった黄金旅程

・「鬱(ウツ)病とはこんな病気らしい」
・「鬱病を表現した大学生の写真が、アメリカで話題に。「苦しみを理解して欲しい」

鬱の定義はわからん

鬱病というものも他者のモノは私には正確にはよくわからないし、今まさにそう診断されて入院しているような方々のことを勝手に定義するのもおこがましいだろうから、あくまで自分のイメージ又は体験に基づいての「鬱」について書きたい。

だが共感する

しかし一般に調べられる中で「気分が浮き沈むのが人間です。良い時もあったり悪い時もあったりします。しかしそれが浮いてこず、長いこと沈み続けていく状態があります。それが1つには鬱病なのです。」という表現があるけれどこの部分には共感できるものがある。

絶望から

ここでこれから書く「鬱」は、 このブログに出てくる「無気力」のことであり、 私の経験のことである。 このブログ上必要なことなので書きたい。

 

 

とあるニートの「絶望」の1つ。

鬱っていうのは自分の場合は「辛い」というより
 
「未来のすべての選択肢が暗くなる」
 
という感覚だ。
 

 

辛くても希望があればいいんだよ。

耐えて、

あるいは工夫して、

 

希望に向かっていけるから。

 

でもその希望が無いと今が辛くなくても鬱蒼とした気分になっていく。

 

未来がないから。

将来がないから。

オレはやりたいこともないし、

やれることもないし、

というかなにも欲しくないし。

 

何に「絶望」するかは人それぞれだろうけどね。

身長が低いとか。

たとえば彼女欲しい人が「オレ顔ブサイクだから一生無理だろうなあ」と思ってしまったらその時点で希望が無くなる。

それが実際に無理かどうかは別として、

その人がそう思ったら、そうなのだ。

 

それが絶望。

 

でも「そんなことない」と思えた時にそれに向かって活動していけるようになる。 それが実際どうなのかは別として。すなわち希望だ。

重要なのは事実かどうかではなくて

 

そう思えるか

思えないか

 

何も要らないから神様ボクを殺してくださいという
「無」

自分の場合はなにも欲しいものがなかった。

だから人生に目指すものがなかった。

だからなにも頑張りたくなかったし頑張らねばならないとしたらすげー辛い。

逆に言えばもう頑張らなくてもいいのならばとても楽な気持ちになれた。

だから自分は2006年あたりには幸福に人生を終われるという感情でいたのだ。

 

これわかるかな?

 

求めることがなにもないってこと。

 

何もないの。何一つないってこと。

 

繰り返しになるけどその理由は人それぞれだろう。

とにかく未来に見れるものがないというのは。

でも何かしたいことがあれば取り敢えずそれに刺激されてなにか出てくるんだけど、

何もないと無気力になった。

 

これからどうすんだろ。

どうなってくんだろ。

なにがしたいんだろ。

なにもないな。

え、なにもないじゃん。

なんかあるかな。

え、なにもないじゃん。

あ、なにもないな。

 

というか要らないな。

 

こんなもんも、

あんなもんも、

クソみたいなものばっかだな。

クソいらねえや。

あ、なにもないじゃん。

………… 

…… 

 

こんな感じ。こんな感じだったような気がする自分は。

学校辞めたときはとりあえず働いて今を楽しんでたからそれはよかった。

ゲームとかね。

生きる意味や続けていく意味が分からなくなった時はゲームも何もかも殆ど無価値だったしどうでもよかった。

仕事辞めたときは多少はやることあったけどだんだん無くなっていった。

 

欲しいものが手に入らないのでは?

こんな自分には一生なにも無理なのでは?

 

とかではない。

 

見込みが無いとかじゃなくて、

求めることそのものがない

 

ということ。

 

「偉大なるなにか」という偉大なる理想。

偉大なる世界の趨勢
 

でも普通に考えたら何かあるだろうって思うだろう。

人間だから。

 

「美味しいもの食べたい」

「彼女といちゃつきたい」

「よく安心して雨風しのげるところで寝たい」

 

という3大欲求。

 

生理現象としてのそれらの欲求すら、

考えの中ではどうでもよかった。

 

そもそも美食にふけるということ自体の価値が低くかったし、

性欲に興じるという価値も低かったし、

寝るのはまあ普通にあったくらい。

ココらへんの価値観は歴史などの影響で「あまりよくなくてかっこよくはないもの」という価値観になっていたのもある。

偉人達は美食にふけないし女に滅んできたから。

 

だから自分にとって真に価値あるものとは

「偉大なるなにか」

しかなかったのだ。※笑うとこいだいなるなにか

 

だか偉大なる何かなど何処にあるというのだろう。

17,8の小僧のまわりに。

だがそれでもそれだけにしか価値はなかった。

 

そんなものと比べられてはどんなものでも価値はなくなる。

 

そこらで売ってる100円のプリンにどれだけの価値があるというのだろう。

偉大なる何かに比べれば「それはなんだ?」というレベルに落ちていく。

 

なんだってそうだ。

美食も美女も富裕も地位も名誉もなんだってクソ以下になった。

 

でもそれは言いわけ程度で本当はなにも知らないだけなんだ。

そう言って100円のプリンすら食ってねえからそんなんになる。

なににも触れていないから。

でもたとえ触れたとしても何かと比べてしまう時点でどうにもならなくなっちゃうけど。

 

ともあれこれが私の「鬱」だった。

 

そしてそれがまた、

 

悪いわけではないということ。

 

あくまでもそれが及ぼす現実がのちのち都合の悪いものになっていくだけで。

つまり「何もできない人間になる」という。

何も興味ないから何もしないで何も力がつかず何もできない人間になる。
 
何も興味ないんだから生きる理由も無いのだし死ねばいいのだけど。
 
そうならなかった場合は非常に困ることになるという現実のおはなし。
 
 
 

鬱が悪いわけではない。

bandicam 2015-11-04 01-16-01-920
 
でも言いたいのはそれが「悪い」とかじゃあないということ。
 

心が「そうなったのならそうなったで理由がある」のだから。

むしろ「なるべくしてなった」のだ。

鬱は鬱であってそれ以上でも以下でもないただの「状態」だった。

 

それに意味が出るのは「自分の態度」だ。

 

一方から風が吹いている。

 

自分がどっちを向いているのかで、

 

迎え風(アゲンスト)なのか

追い風(フォロー)なのか

 

それは変わるから。

 

何かを求めれば求めるほどデスステーションへ

 

正直この状態での「鬱」はいっそう自分を追い詰めていく。出来ないし自信を持てないのにプレッシャーだけは自分にかけ続けるのだから。そして活動力が次第になくなりボーっとでもしていたらあっという間に連れて行かれる。そんなおはなし。

 

自分の価値観や生き方を根底から考えなおす転機とみるか

 

そのままの状態では頑張れなくなったから「鬱」なのだからすべてを見直す必要があるのだ。それだけすっきりさっぱりとした人生の方向転換であったり、一から見直すチャンスでもあるのがこの状態なのだ。

 

納得してここで終わってもいいんだ。

死は自然な権利だ。

死なないことが正義とは思わないし、

思えない。

むしろ自然の最終美ですらある。

死があるから全てが巡るのだから。

 

オレは05年や07年08年に鬱号超特急に乗ったり降りたりまた乗ったりしていた。

「プロフ参照」

 

そして自分のすべてを見直すために1から1000まで自分の人生について考えに考えた。

究極的になにを目指すのか何のためにならやれるのかなにがあるのかないのか。

自分はなにを望んでいるのかなにを望んでいないのか出来るだけのすべてを自分に訊いた。

「どんぶりの中の一年戦争 -3ヶ月聖戦-これが私のエンドウォーズ」

 

その上で「すべてに納得した。」

 

理想も絶望も希望も欲も辛さも嬉しさも何もかもをひっくるめてすべてに納得したうえで自分の人生を終えることを決めた。

 

自分で決めた。

 

それは感謝の上で。

べつに鬱でもいい。

 

これは「なにも求めない」という状態から、

「なにか求めねばならない」

と考えることで、 次のことが発生する。

「それを出来るだろうか」

そして鬱は 「無理そうだな」

ということで発生する。

自己嫌悪、絶望。

 

じゃあなにも求めなければいい。

すべて諦めればいい。

そうすればなにもしなくて済むぞ。

 

これは「死にたきゃ勝手に死ね」とか言ってるんじゃない。 「なにもしなくていいあなたはあなたのままでいい」とかも言ってない。 早とちりはダメだ。そうじゃない。

 

こうすると「感謝」できるようになるのだ。

 

いや宗教とかスピリチュアルとかじゃなく。
(▽Д▼ )

 

なんていうのか、

 

「もういいんだよ。」

 

もういいの。

 

それまでがどうであったかはしらないけどそこまでヤバイことってあっただろうか。

ある人もいるだろうけど殆どの人はそんなに壊滅的にグロイ過去ってなくない。

 

こういうのなんて

ルーマニアの闇、下水道で暮らす「マンホール・チルドレン」と呼ばれるチャウシェスクの孤児たち

【中国事件簿】「幼児の手足切断し利用」…中国で産業化する「物乞い管理」の非道

 

勿論つらいことは人それぞれであって、

何かと比べるものでもない。

その人の主観では辛いものは辛いことだから。

でもいったん改めて考えてみると、

「どうなのよ」って話。

 

そんなに悪い人生だっただろうか?

 

それほど生きていなくとも。

20やそこらでも。

 

それなりに遊んで、

それなりには美味いもの食って、

それなりな想い出もあって、

と。

 

どうか?

 

もちろん「最悪」だったって人もいるだろう。

チャウシェスクの落とし子並の人もいるかもしれない。

そういう人は環境次第でハングリーに何かしてるか、

まったくできないかってのはあるだろうし、

 

と言うかオレにはわからん。

 

普通の日本の中流家庭に生まれ育ったオレには。

 

でもまあ「割りと良かったな」って人もいると思うんだ。

何とも比べなければ。

 

すべてを一度あきらめて、見てみてほしい。

ここで終わるとしたら自分の人生はどうだったのかって。

良いことなど1つもなかっただろうか。

それ以上も長いこと無理に生き続けようとするから鬱になるのであって、

取り敢えず今までだけで見てみたらそれはそれでいいのかなって。

思えることもあると思うんだ。

オレはそうだった。

 

もうなにも求めるものがないのに何を頑張るというのか。

 

それは辛い。

でも頑張らなければ単純にこのままハッピーエンドじゃないか。

 

だからオレは自殺が幸福だった。

 

辛いなどはなかった。

だからといって解放されるというようなものでもなく、

納得した満ち足りた感情があった。

 

だって人間はいつか必ず死ぬ。

 

20年だろうが50年だろうが80年だろうが必ず死ぬ。

 

じゃあ何故生きながらえるのか?

 

何かしたいことがあるからじゃないのか?

だがもうオレにはなにもないと確認した。

 

それならばもういいじゃないか。

というシンプルな応え。

 

ぜんぜん何もおかしくない。

 

これから辛いことを何の理由もなしに耐え続ける必要なんて何処にもないんだよ。

 

って思った。

 

意を差し挟む余地のない気持ち。

 

そして自分の人生の最後を自分の意志で決められる自決。

 

いや本当に悲しさとか辛さはなかった。

 

感謝がそこにはあった。

 

結構楽しいこともあったし、

死ぬほどの恋もしたし、

よかったのだ。

 

最後の感謝がそこにはあったのだ。

 

どうせいつかは死ぬのだからね。

それは悲しむことじゃなくて受け容れることも価値あることの1つだろうし。

 

ただオレの「その時」が来たというだけのことだったんだ。

 

自殺が文化だったローマ

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「ローマ」より

 

古代ローマでは年老いて今まで自分がやってきたことができなくなるとか家族に迷惑をかけるなどで老齢になると自殺する人が多かった。

 

それは文化の如くで、五賢帝に数えられるハドリアヌス帝すら自決を図った。(さすがに皇帝に死なれると困るということで止められた)

 

そしてローマには墓場のような物々しい物はあまり建てられず、街道沿いにつくられてローマへやってくる人たちを歓迎したという。

墓碑には

「やあ旅人よローマへようこそ。私の横にある墓より私の墓のほうが高価くつくられているからこの上に据わって休んでいきなさい」

なんて愉快なものから

「ローマの兵士として誇り高く戦うこと15回。後に最愛の女神と出会い日々を過ごした。私の人生に何の悔いもなかった。」

と高らかに宣言するようなものまで。

 

死を肯定的にとらえていたのがみてとれる。

実際どうだったかは別として。

 

死は日常だった。

 

ローマは戦争に次ぐ戦争の歴史をもっている。いやローマに限らず今日に至るまですべての文明はそうやってここまできた。特にまだ幼い時ならなおさら戦って身を守らなくてはならないし、食べ物がなくなれば戦って奪い取るしかなかった。

 

死は日常だった。

 

死は特別なことでも何でもない。管にまかれて一ミリも動けないのに延々と延命されて神聖視する絶対不可侵の領域などでは断じてなかった。

 

死はひとの手にあった。

 

いつか必ず死ぬことを忘れるな。

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そしてあまりにも有名な

「メメント・モリ(いつか必ず死ぬことを忘れるな)」

という至言。

 

だから今は生きよう楽しもう。

我々はきっと必ず明日死ぬから。

 

それがローマ人の文化であった。

自殺にしろ寿命にしろ、

死は絶対の自然であってどうしようもない。

どう死ぬかに善いも悪いもない。

自分がいいと思ったらいいのだ。

だからオレは幸せだったんだ。

最後に色々なことに感謝が出来るだけの気持ちでいられるのは、

 

すべてを受け容れて、

意味もなく無理をしなくてもいいからなのだ。

 

だから余裕を持って感謝ができたのだから。

そしてそれでいいと心から納得したのだから。

 

私の「その時」が来ただけだったのだ。

 

その価値観は今でもまったく変わっていない。

自分にとって生きるということは死なないということじゃない。

 

死ぬにせよ生きるにせよ自分で決めるってことだ。

 

短い間でもそうで在れたなら絶対に言える。

 

私は生きていた。

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