デスペラードな愚か者時代 ニートアカデミア(哲学)

【ニートのプライド-自律-】自分で自分の手綱を取る。

2015年8月22日

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 奔流に呑まれてめちゃくちゃになって何が何だかわからないから不安になる。

 
渦に巻き込まれると自分がもうどうなっているのやら分からなくなる。
「他意の渦潮」

 日々の怠惰な現状にいてもそれなりに人間はなにか適当に勝手にあるいは影響されて動くものであり、 そんな荒波渦潮の中で自分が今何をやっているのかさえ把握できないことがある。自分の意とは関係なしになにかしらの他意によって動くだけというような意味。

ここでは簡単に言うが、

つまり「わからないから不安になる」ということ。

見えないから、

聞こえないから、

解らないから、

不安になる。

自分が今何処にいて、

どんな状態にいて、

どうなっていくのか、

そしてどうしたいのかも分からないから、

どうなってしまうのかも判らず不安に襲われる。

 

洗濯機の中でぐるぐる自分の意志など働かずに勝手にぐるぐる回ってるだけの様な状態。

 

自分で自分の手綱を取りたくなるのはそんな時。

 

特にニートのような「何もやることが決まっていない」という状態では顕著である。

 

仕事をしていればそれによって規範され他の予定も決まってくる。

というより大事な予定があればそれを動かすことは出来ないからそれ中心になるというわけだ。

ここでは仕事=収入=生活なので一般的には大事となるから。

 

しかしニートはすべてが自由である。

 

しかし人間はいきなりそんな物を手にしても特に活用できないものだ。

広い海の中で漂うだけのようになってしまう。

何をしてもいいけど何をしたいのかわからないという状態。

だからテキトーに時間が経ってしまい、 これでいいのか?こんな過ごし方でいいのか? いやいいのかも?どういう意味で?いやワカラナイ?

という具合に持て余してしまう。

普通の人間ならなんとなしに有効活用したいという欲求を持つがゆえに責めることになる。

そして不安でイライラしているだけになっていく。

※ここで言う「他意の渦潮」は「確たる自己を持っていない」ひとが 他意悪意渦巻く世界に入ることでも凶悪な影響を生み出してしまう。 非行少年少女が夜の街に入りめちゃくちゃになるのは正にこの所以という意味にもなる。 上手くいけば大物になるだろうけど。 このことからも私はひきこもりを推奨するぞ。そうして自分を創るのだと。 だがそれはまた別の話。

 

 

 

生活コントロール。
日々の予定を作って律する。

自分はとにかく一日のスケジュールを決めた。

※と言ってもこういうものは「やることが先にあって決まってくるモノ」だから厳密には立てていない。あくまで「なにか律する」のである。そしてそれはなんでもいい。だから本当は『自分自分の将来的なすべての設計をとことん究極的に見つめる(マイ究極計画)』をしてからのほうが良いのだが、自分も最初はとにかくコントロールするというだけで良かった。『マイ究極計画』は後々でも良い。

むかしじかんわり
 

これがニートになってた時の時間割で最も基本的な時間割だった。

(いやいまもバリゴリのニートだけど)

仕事をやめて18歳の時の2006年の暮れから。

働いているときは「ゲームの一部」と「読書」と「筋トレ運動」の時間が無かった。 さらに昼寝の時間も入っていたからその頃はほとんど趣味の時間などなかったな。
※基本的に「ゲーム」の箇所がその時の活動目標に当てられるので、そこは現在では「多目的活動」になる。(運動の時間も減るが)

ニートなりたての頃は当然もっとぐちゃぐちゃで朝だから夜だかわからないような使い方をしていた。

そうすると「どんどん自分がダメになってる感」に陥ることで不安で何かしていないと落ち着けなかった。

だから必然的に何かしたのだろう。

 

つまりこの表のとおりに動ければそれなりに安心するということだ。

 

それは自分でそう決めたことだからだ。

そしてそれをその通りにしている限りは取り敢えずそれで良いのだ。

すなわちこういうことになる、

 

「少なくとも自分の考えたことを実行できている」

 

これが自分の手綱を取る」ということの一つだ。

少し詳しく見ていく。

 

睡眠時間

 
7時間から8時間くらい寝ている。最初はなんとなく5時間くらいにしたいと思っていたが結局できなかった。立って動いていれば眠気は感じないものだが、体を落ち着けてしまうとどうしても眠気がやってくるからだ。ゲームするにしろ、読書するにしろ、現在ブログ書くことにしろ、体を座らせてしまうと眠気には抗えない。必死に起きようとしながら続けてもあまり大したことは出来ないから。だからこの時間で今は納得しているね。

だから9時間や10時間寝たりしたら顔を往復ビンタして全力でひっぱたく様な事を決めていた。 日々の運動の量やキツさが増えるペナルティランを課した。 そしてそれは必ずやった。 だから起きてまた寝そうになるとそのことを思い出して起きた。

※しかし現在は、律することより、活動することに重点が置かれているため自由にしていることも多い。 冴えてる時に行動して、鈍ったら寝て、冴えてる時に動くという「その時々戦術」を試しているぞ。

睡眠あれこれ

睡眠適時間はそれぞれなんじゃないかな。 柔道界の伝説である木村政彦は「寝ている時間は無駄」として3時間しか寝なかったというが、 アメリカ独立の父の一人であるベンジャミン・フランクリンはしっかり7,8時間寝たという。 (それは覚醒状態にあるときがしっかり冴えていなければいけないからだとか。 ちなみに計画の時間も大事だとして4時間ほどとっていたという。)

 

筋トレ

 
朝起きてすぐ、 軽い腕立て伏せから始まって、軽い腹筋、軽いスクワット、軽い背筋起こしなどをしている。 元々何かできる事も無しに歳をとってしまうのではないかという恐怖感が漠然とあって、 その中で「とりあえず筋力つけとこう」というバカにて18歳くらいから行われた。

これに関しては別にない。 基本的に意識の明確なときにやるわけだし、 やらなければすっきりしないのだから必然的に行っていた。

※これは現在も続いている。 贅肉もあるため腹筋が割れるなどはしていないけど。 量はやる気のあるときは増えたり無いときは減ったりしている。 今は筋力をつけること自体に何の意味もないのでやる気はないからコンディショニングとして軽めのものだけ。精神衛生上運動が有効なので続けているのだね。

筋トレあれこれ

「筋トレをする人は、なぜ、仕事で結果を出せるのか?(千田 琢哉) 」
「仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか (幻冬舎新書 山本ケイイチ) 」

なんて本もあるみたいだ。異次元なこと言っててよくわからんけど。


胸板の厚さは説得力に比例する?

こりゃーまったくそのとおりだね!まったく!

 

ゲーム

この時期はわざとゲームをした時期とそうでない時期がある。

やった時期では、

「とにかくなんでもいいから刺激を与えて考えたい」

という理由によるものだったのでこれに関しては次章に譲りたい。

つまり活力に関することだから。

しかしスケジュールに組み込んで行うという点に関しては律していた。

それ以外の時間にはやらなかったから。

ゲームに興味がなくなった時期には殆ど運動か読書をしていた。

あるいは天井を見てぼーっとしていたか。

鬱の時はそんなものだった。

 

運動

 
外が暗くなると外に出てランニングや公園での軽い筋トレが始まる。夏場は外が暗くなるのが遅いので動けないことにイライラしたりするから困るくらいに、運動は自分にとって必需の行為となっている。
 
雨の日も雪の日も暴風雨の日もブリザードの日も来る日も来る日も欠かさなかった。
 
ブリザードの日はでこがキンキンに冷やされて頭が痛すぎて死ぬかと思ったり。夏の豪雨の日は息ができなかったり。(ほぼ風呂でシャワー浴びてるより激しい)足の関節が変になった時以外は毎日走った。

勿論これに関しても罰というのはない。 何かこうした決まり事を果たせなかったときに運動量がキツくなるという罰に利用したりする場所でもあった。基本的には運動をちょっとした不都合で休むということは許していなかった。

※これは現在も続いている 筋トレと同じく今はやることがあるので小一時間ほどで切り上げる程度になったがほぼ毎日続けている。 だから雨の日はすぐ休むし、面倒な時はやめている。 今は自分を無理に責める必要がない状態ということだろう。

運動あれこれ

「体の状態と精神の状態は比例する」と思う。なぜならそれ等は一人の人間の中に同一に存在するものだからだ。 つまり連動せざるをえないのだ。

体がハイになれば頭もハイになる。 頭がハイになれば体もハイになる。

これが経験上得られたことだった。だから自分は今も運動は続けていて、気力回復気分転換にとんでもないほどの利益を享受できている。

つまり「運動した後は気分がいい」

厳密には体の状態を変えればいいのではないかと考えているけど。温度を急に変えるとか筋肉を疲労させるとかの作用なのかと。

 

涼む

 
運動が終わると涼む。 頭でまーーーーたく何も考えない時間。リラックスできる唯一かもしれないやすらぎの時間。 常に何かに脅迫されているような感覚を覚えるニート生活においてこの時間は貴重だ。
 
つまり運動した後は体が疲れてくれるので「何かした感」が大きく、さらに今までのスケジュールをしっかりこなしていれば特別不安がることもないからだ。
 
だからその後のちょっとした時間は「やすらげる」のだ。「やることはやった」のだから。 やすらぎとはそういうことではないのだろうか。 リラクゼーション施設に入っても意識的な不安をそのままには安らげないのだから。
 

※この時間によく「アメトーーク」や 「あらびき団」や「世界ふれあい街歩き」を見てたから好きな番組になった。 テレビ見てないアピールすると自分はテレビを見ない。ゲームするからかな。 でもこんな風にたまには観る。 子供の頃はよく観ていたけれど。ショムニとかお水の花道とかのドラマも。 映画やアニメは個別に観る。

 

読書

 
「全て良き書を読むことはその時代の最も優れた人と会話をするようなものである」と誰かが言ったが本当に大きな影響を受けている時間となった。
 
何が良いといえばまず「自分で物事について考える時間が必然的に生まれる」「外からの刺激や視点が常に入ってくる」のだ。
 
特に運動終わりに涼んでいる時が一番脳が活性化していて冴えていた。この吸収力が最も高いと思える「黄金の時間」に本を選んで読んでいた。(現在この黄金の時間はサイトカスタマイズするときに利用していたりする鬼が宿る時間)
 

元々は本など読まない人間だったのが、 鬱を経て、ゲームに関心がなくなって、何もやることがなくて天井を見るしかなくなった時に、 最もその時に興味のあった最後の自分の砦である「歴史」についての本を読んだのだ。

特にクラウゼヴィッツの『戦争論(フォム・クリーゲ)』(篠田英雄約)は書き写すほど影響された。

外で遊ぶ事もしない、ゲームもつまらない、テレビは見ない、

となれば本の中はパラダイスだった。

辛うじてワクワクする物事を保持したのだった。 唯一自分に楽しいエンターテインメントを提供してくれるものが本になったのだ。 こうしてみるとほとんど囚人の感覚がわかるのではないか。 自分で自分を縛ったことで。

というか私は自分と社会の美徳の囚人だった。

※最近はサイト作りやその他の事を覚えるのに夢中で殆ど読めていない。 だって創るのも楽しいんだもん。 ブログ作りが一段落して、一番にやることはそれではないと至った今、また読みたいと思う。 また自分造りの時期が到来するのだ! ウィキペディアはものすっごく読んでるけどね。

 

 

家事

 
自分の食事 身の回りの掃除整頓 ゴミ出し など家の雑事や自分の食事などは自分で管理することで自分の「ダメ感」を払拭できる。


勿論、効率だけ考えれば人にやってもらったほうがいいことは多い。当たり前だ。 だが自分のやりたいこともやるべきことも決まっていない人間が効率だのどうのと言ってもねえ。

それなら自分のことはできるだけ自分でやるとまだましな状態を保てた。

 

 

さて、

 

このページでは運動や読書の素晴らしさを語っているのではない。

 

それはまた今度にしたいが自分は未だニートなのであまり説得力はなさそうだ。

そしてニート脱却を狙っているわけでもないから困ったことで。

私は私の産まれた家を疎まないし死ぬまでは自分の人生を生きたいだけだから。

 

とにかくこのページでは

「自分をコントロールする(手綱を取る)」

ことによって少しでも自尊心を守るということだ。

 

やることはなんでもいいのだ。

ただしやると決めたことはきっちりやる。

そしてこれは大事なことだが、

「何かを忘れたら罰を受ける」

という

決まり事は心のなかで決めたのではいけない。

もう一度いう。

 

心のなかで決めただけではすぐに撤回することになる。

実行したいならテンションの高い時に、

つまり「それをやるぞ!」という気持ちが高い時に誓うことだ。

自分の大切だと思う物事に賭けて誓うのだ。

「これを破って罰を受けなかったらこの記憶や想いに泥を塗る」 とかなんとか。

 

そして何かしらの儀式をする。

 

手で十字を切るとか、10キロマラソンするとか行動の儀式。

その行動によって自分の意識は高まる。

 

「動作によって意識を高める」という意味においてはプリショットルーティーンとも言える儀式。

 

3日くらいかけてもいい。

長くかければかけるほど強く働く。

要はそのために使った時間や行動に比例してその約束は強く働くということ。

 

私は3ヶ月かけた儀式の末に死の旅に出た時もある。

 

それで動かなかったら3ヶ月がパーになるからね。
生きているけど。

 

別に変なことは言ってないぞ。

 

スピリチュアルなこととかは。

あくまで行動科学。

意識づけ。

 

何か手痛いことがあって、

「絶対にたばこをやめてやる!」「絶対に痩せてやる!」 とか思ったならば、

その為に実行する事を考えると思うが、

その実行を自分に約束させるように儀式をして意識を高めるのだ。

 

繰り返しになるが、

 

その為に支払った代償が大きければ大きいほどその約束は強く働く。

 

これ等のことは自分のやりたいことが確立されてそのために行動し始められたならあまり必要のない行為でもある。

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